第1回金光インターナショナルセレブレーション(2015年11月)の「ご霊地再発見ツアー」では、霊地の由来と聖性について、渡辺順一師(金光教羽曳野教会長)による説明が行われました。
霊場・霊域としての「立教聖場」
渡辺順一(金光教羽曳野教会)
金光大神にとっての聖地(「此方地内」)
教祖金光大神は、参拝者に「天地はどこも同じである」と説きましたが、教祖自身は自宅屋敷地(「此方地内」)を特別な聖なる場所として見つめ、生涯その場所にこだわり続けていました。例えば、明治十(1877)年頃から、村内有力者逹を中心に、それまで頓挫状態になっていた金神社宮建築の動きが起こされ、明治十三、四年頃になると、その建築運動は宮地選定の段階にまで具体化されていきますが、その最終段階で、屋敷の裏山(木綿崎山)に建てようと考える村民逹と、あくまでも「此方地内」にこだわる金光大神とが対立し、再び硬直状態に陥ります。
金光大神は、「大谷村の金神社」(氏神)を建てようとする村民達に対して、「お宮のこと地内建て。村氏子どこへ宮建てても、其方が行かねば空宮」(明治十一年正月)、という「お知らせ」のままに、建てられるべき宮が、金光大神が入る「生き神の宮」であることを主張し、あくまでも「此方地内」にこだわり続けます。
「生き神」誕生の物語(「覚書」執筆の視点)
それでは、金光大神にとって、「生き神の宮」は、なぜ「此方地内」でなければならなかったのでしょうか。金光大神は、自叙録である「覚書」の執筆に関わって、次のような「お知らせ」を受けています。
一つ、此方一場立て、金光大神生まれ時、親の言い伝え、此方へ来てからのこと、覚、前後とも書きだし。金神方角恐れること、無礼断り申したこと、神祇信心いたしたこと。(明治七(1874)年十月)
「此方一場立て」は、この場所に取次広前を初めて開いた、ということを意味しています。神は金光大神に、安政六(1859)年から続いてきた、この場所での取次ぎの働きを踏まえて、川手家に養子に入ってから、この場所で起きてきた様々な事柄を思いだし、生まれたときから現在までの自らの歩みを記してみよ、と促しているのです。「此方一場立て」は、その執筆の視点です。
金光大神が天地金乃神と出会ったことによって、他ならぬこの場所で、人間が天地金乃神の「おかげ」を受ける「道」が初めて開かれたということ。その「おかげ」の事実を視点にして、前半生の苦難の連鎖、すなわち「金神方角恐れ」、「無礼断り申し」、「神祇信心いたし」ながらも、助かりへの糸口さえ見えなかった自らの歩みがふり返られていったわけです。
苦しみの原点
しかも、その自叙録である「覚書」の記述のなかで、「此方地内」という場は、金光大神ひとりの生活史からだけではなく、四百数十年におよぶ養家(川手家)の歴史との関わりで捉え返されていきます。
先祖のことお知らせ。前、多郎左衛門屋敷つぶれに相成り。元は海のへりに柴のいおりかけいたし、おいおい出世、これまでに四百三十一両二年になり。この家位牌ひきうけ、この屋敷も不繁盛、子孫続かず。二屋敷とも金神ふれ。海々の時、屋敷内四つ足埋もり、無礼になり、お知らせ。
私養父親子、月ならびに病死いたし、私子三人、年忌年には死に。牛が七月十六日より虫気、医師、鍼、服薬いたし、十八日死に。月日変わらず二年に牛死に。医師にかけ治療いたし、神々願い、祈念祈念におろかもなし。神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし。
天地金乃神様へのご無礼を知らず、難渋いたし。この度、天地金乃神様知らせくだされ、ありがたし。
うちうちのこと考えてみい。十七年の間に七墓築かした。年忌年忌に知らせいたし。
実意丁寧神信心のゆえ夫婦は取らん。知ってすれば主から取り、知らずにすれば、牛馬七匹、七墓築かする、というが此方のこと、とお知らせなされ。
(安政五(1858)年十二月)
この執筆時点(明治七年以降)の金光大神によってふり返られた、安政五(1858)年での述懐を、①金光大神が経験した苦しみ、②川手家の「無礼」の歴史、③安政五年時点での「おかげ」の気づき、というように整理してみます。
①…天保七(1836)年の養父の死によって、二十三歳で家督を継いだ金光大神が、その後繰り返し出会わされていく、「金神祟り」による家族の死の連鎖、という苦しみです。金光大神は家督相続後、風呂場・便所の増築(二十四歳)、門納屋の建築(三十歳)、母屋の改築(三十七歳)というように、次々と家の増改築を進めていきました。ところが、これら家の拡張をおこなうたび、その動きに織りなすように、家族に不幸が訪れます。門納屋建築の前年には長男(四歳)が、母屋建築の前々年には長女(二歳)が、母屋建築中には二男(九歳)と飼牛が病死し、母屋建築の翌年には二頭目の飼牛が死んでいます。しかもそれらの死は、長男の死は天保七年に亡くなった養父親子の七年忌に、長女の死は養父親子の十三年忌と長男の七年忌にあたり、二頭の飼牛は同じ月日に斃死するというように、見えない糸に操られたような、不気味な因縁を感じさせるものです。「金神七殺」の呪縛からいかにして逃れるか、それが「金神方角」を恐れながら日々暮らし、家族の死と向き合い続けてきた、金光大神の「神祇信心」の課題であり、苦しみでした。
「多郎左衛門屋敷」と川手家先祖逹
②…金神への「無礼」は、金光大神の建築行為に始まるものではなく、遠い昔の川手家先祖逹の時代から続いてきていた、ということへの自覚が、金光大神に促されています。天保七(1836)年、養父親子の相次ぐ死は、四百数十年前に金神禁忌にふれてつぶれた「多郎左衛門屋敷」の伝説と関わっています。その伝説は、川手家始祖である多郎左衛門が受けた金神祟りの物語ですが、同時に、川手家の家督を継いだ先祖逹もまた、相次いで金神の祟りに遭い、家を滅亡させてしまったという、四百数十年に及ぶ川手家先祖逹の受難の物語でもあります。金光大神が、金神祟りの家筋という、おぞましい家の伝承を耳にしたのは、川手家に養子に入って間もない、十三、四歳の頃だったようです。そして、金光大神がその家筋の問題を現実的なものとして意識し、金神や、救われていない家の先祖達の霊を恐れるようになったのは、養父・粂治郎の死に際してでした。
元は赤沢姓であった粂治郎は、家督を継いで川手家を再興しました。しかし子供ができなかったので、金光大神を養子に迎えました。その後、家運を挽回しようと努力を重ね、次第に所有田畑を広げていきました。さらに天保二(1831)年には、粂治郎夫婦のあいだに、長年望めなかった実子・鶴太郎まで生まれました。金光大神が十八歳のときです。このとき、粂治郎は、金神祟りの連鎖を自分の代で断ち切ることができた、と自負したのではなかったでしょうか。翌年天保三年に、粂治郎は、領主から「じろう名」差し止めの達しを受けて、川手家始祖の名である「多郎左衛門」に改名しているのです。
それからわずか五年後、天保七(1836)年七月に鶴太郎が六歳で亡くなり、八月には粂治郎自身が亡くなりました。そして、粂治郎はその死の床で、次に家督を継ぐこととなる金光大神に、川手姓から元の赤沢姓に戻すよう、遺言をしました。これは、いわば金神への敗北宣言でしょう。川手家の存続を断念し、そうすることで金神祟りの災禍が金光大神にまで及ばないように配慮した、ということです。
ところが、「多郎左衛門屋敷」の跡地は、川手家屋敷地のなか、すなわち「此方地内」にあります。金光大神が門納屋を建てた場所が、その跡地です。ということは、川手から赤沢に家の姓を変えても、金光大神一家が「此方地内」にとどまり続ける限り、金神の土地を汚し続けてきている「無礼」の問題は、何ら解決されないまま積み残され続けていく、ということです。
救いの原点
③…四百年に及ぶ川手家先祖達の「無礼」の歴史を神から教えられた安政五(1858)年は、養父親子の二十三年忌の年にあたります。この年、金光大神は、天地金乃神と出会い、神の言葉を感受できるようになり、「文治大明神」という神号を許されております。天地金乃神の「おかげ」を現す「生き神」の誕生です。そして、その翌年に、「此方地内」にある川手家屋敷は、「難儀な氏子」逹を助ける「生き神の宮」に生まれ変わっていきます。
「多郎左衛門屋敷」跡地を含む「此方地内」は、もともとは人間のものではなく、天地金乃神が支配する「神の地所」でした。その場所は、そこに川手家先祖が知らずに足を踏み込ませてしまった、つまり人間の生存欲によって汚された、神の居場所です。そして、その場所は、苦難と死の悲しみを背負い続けてきた先祖や養父母逹が、神々に救いを求めながらも助かり得なかった、痛みの地です。しかし同時に、その場所は、金光大神が天地金乃神と出会い、そこから川手家先祖逹の霊や、氏子達の助かりの道が開かれた、希望の場所でもあります。救いが見えず、苦しみ悩み続けてきたという、死者逹の無念の思いを背負った、痛みの土地であるが故に、助けようとして助け得なかった神の痛みや願いを感受することができた、そういう親神との出会いの場所です。暗闇の深みのなかで光が見出されていくような場所です。川手家に繋がる人々のいのちの流れのなかで、苦しみと救いの原点となった土地、それが「此方地内」です。また、金光大神によって「一場立て」られたその場所は、川手家にとどまらず、神々・諸霊との関係に悩み苦しむ総氏子の、救いの起点となった場所でもあります。そのような意味で、金光大神にとって「此方地内」は、動かし得ない特別な場所、聖なる唯一の土地だったのです。
「身代わり」の死
近藤藤守は、明治十四(1881)年一月に初参拝しましたが、その時の金光大神広前の様子を次のように語っています。
(金光大神の)ご修行の場は、六畳一間であった。お住まいそのものも、実に目もあてられないむさくるしいあばら屋であったが、その六畳の間には、三枚の破れ畳と荒むしろ三枚が敷かれているだけであった。これが、後々一教の開祖と仰がれるかたのお部屋とは、どうして受け取ることができようか。
こじきが天露をしのぐ仮の宿と大した違いのない、このようなお粗末なお宅で、長い年月を過ごされながら、教祖の神は、天地の親神様の御徳をその身に現されたのである。
教祖の神のご修行の場であったお宅は、わらぶきのおうちで、しかも内側といえば実にお粗末であった。壁という壁は、ことごとく崩れかかっている荒壁で、天井が壁に続くあたりの古く煤ぼけたようすが、いっそうみすぼらしさを際立たせており、拝見していて、おそれ多くて涙するばかりであった。
近藤が目にした、金光大神最晩年の広前の徹底した「みすぼらしさ」は、宮建築が頓挫してしまったことと無関係ではないでしょう。金光大神は、金神社を建築しようとする世話方衆や村人達に対して、その寄付金集めを、「小の、こまい氏子」が助からないという理由で中止させました。
当時、金光大神広前を訪れる人々の多くは、様々な病者達や、生活に破綻した困窮者達です。そのなかには、被差別の身分的境遇を強いられていた人々も含まれていました。「此方地内」の竹藪のなかに、ひっそりと開かれた「生き神の宮」は、金や紅色で飾られたきらびやかな社殿ではなく、ホームレスのテント小屋のような「あばら屋」だったのです。
明治十六(1883)年十月十日、金光大神は、「生き神の宮」での取次の業を終え、永世生き通しの神・生神金光大神となって、天地金乃神の御許へと旅立ちました。神は、金光大神の死の意味を、世界中の様々な難儀に苦しんでいる人々(「人民」)、救いを求めて広前に訪れる人々(「大願の氏子」)を助けるための、「身代わり」の死である、と伝えています。「立教聖場」は、金光大神が、「生き神の宮」で「身代わり」の死を遂げ、再び生神金光大神として蘇った、世界中の「人民」「氏子」にとっての聖地なのです。