「信の根拠」―岩﨑道與

現代社会にあって科学技術への依存度が増進するなか、天地を生きる人間として、科学とどう関わっていくかが、信仰の課題となっている。金光教国際センターでは、この問題を継続的に考えていきたいと願っている。今回は前所長の岩﨑道與師に、ご寄稿いただいた。

「信の根拠」
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「信の根拠」岩﨑道與


岩﨑写真「信の根拠」

金光教静岡教会 岩﨑道與

ある本に載っていた、忘れられない話しがある。
トリノの聖ヨハネ大聖堂には、磔になったイエスの遺体を包んだとされる聖骸布がある。その真偽をカトリック教会は正式に鑑定しようとしない。その理由は、鑑定の結果、それが偽物であることが判明するのを恐れているからではない。仮に、それが偽物であったとしても、カトリックの信仰にはダメージはない。逆に、信仰にとってダメージとなるのは、科学的に本物であると実証され、それを信仰の拠り所にした時だ。それは「信じる」ことではなくなるからだ。信じるということはまだ自明でない段階で、それを受け入れることでなければならない。それには「飛躍」が要る。こういう話しであった。科学的に証明されたから受け入れる。この瞬間に「信」の根拠は崩れていく。確かさを求めることで、反対に信が不確かになる、というこの話しは、「あなたはなぜ神様を信じるのか?」「あなたは何を根拠に神様を信じるのか?」という問いを突きつける。この問いにあなたは答えるだろう。「実際におかげを頂いたことがあるから」。ならば再度問う。「その時あなたは何故神様を信じて祈れたのか」。それには「教会の先生のお話を聞いて」「親の信心の姿を見て」など、その人が信ずるようになった理由を答えるだろう。「では、先生はなぜ」「親はどうして」。そうやって問いを重ねていくと、つまり、あなたのとことろに届けられたこの「信心の道」をさかのぼっていくと、とうとう教祖金光大神にたどり着く。
ではなぜ教祖は神様を信じたのか。
42歳の大病で教祖は神様に語りかけられる。「お前はこうして災難から逃れようとしていただろう」と。これを聞いた教祖は気がついた。「難儀の中でも、神様はずっと私のことを見て、祈っていた」と。これが教祖の信の根拠である。己を越えた大きな神様の祈りと働きがあり、その一方で、それに気づかないでいた己の浅はかさという凡夫の自覚。極大な神様と、極小な自分。この圧倒的な落差が教祖の中に信じるという心を生んだ。この落差が「信」を生み、それをジャンプ台に、教祖は何もかも捨てて神様の懐に飛び込んでいった。その信が教祖を救った。助かりを生んだ。そしてその助かりが取次の道を生んだ。
群れが生き延びるために、危険が潜む海にまっさきに飛び込むFirst Penguinのような教祖の姿(生き方)と、その教祖が語る助かりの話し(教え)を信じて、後に続く者、そう私たちも天地という神様の懐に飛び込むことになった。とりわけ、各教会の初代は、それぞれの布教地という海に飛び込んでいった。
教祖の生き方と教えを信じて飛び込んだ者は、教祖と同じように大きな神様と出会わされることになる。それは小さな自分との出会いでもある。こうして自分の中に生じた落差が、ますます私たちの信を確かなものにしていく。
私たちが唱えるKami Prayerの前半はReverentlyで始まる。そして後半はHumblyで始まる。この Kami Prayerを唱える度に、大きな神様が立ち上がり、小さな自分が姿を現す。その度に信が生まれる。

「信の根拠」―岩﨑道與” への1件のコメント

  1. 教祖が初代がジャンプしたようなジャンプ台がいま求められているのでしょうか。実際には目の前にあるのに、多々の現代の利器のせいでかえって見えなく見ないですむ現代社会になっている気もします。

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