金光教国際センター前所長・現嘱託岩﨑道與が、昨年の北九州教区「教師研修会」にて講話を行いました。その内容を紹介します。
・・・近代化という時代社会の作用なのか、その「取次の業」ということが理念化され抽象化されていく中で、この中身がだんだんと曖昧になってきているのではないか、ということが総括プロジェクトでも度々議論されました。この「取次の業」の曖昧さこそが、「取次とは」ということを教団的課題にしていかなければならない現在の状況を生んでいると思えてなりません。そうであるのならば、ここで改めて「取次の業」ということを具体的に考えてみることが大切だと思います・・・
(文中より)
H27.06.19
平成27年度 北九州教区「教師研修会」講話
「取次の業」について
金光教国際センター
岩﨑 道與
○はじめに
ご紹介を頂きました岩﨑道與と申します。私が御用している国際センターは金光大神様のご信心を世界に伝え、助かりを実現していく機関です。
さて、その世界布教という御用の現場となる国外で活躍するためには三つの条件があります。もちろん、御用ですから志というか願いがあれば御用は出来ていくでしょうし、それに神様がお使いくださらなければどうにもならないのですが、そうとして、私の経験から、やはり活躍するためには大切な条件が三つあると考えています。
では、その三つの条件とは何だと思いますか。英語が出来る。やる気がある。お知らせを頂ける…。いろいろ考えられると思いますが、私が大切だと思う三条件とは、◇どこでも寝られる、◇何でも食べられる、◇誰とでも仲良くなれる、の三つです。(ポンティアコーンの話)
世界布教は異文化布教です、異文化とは想像を超えたもの、自分の物差しが通用しないところです。その異文化に入り込んで行くためには、自分の「世界」を超え出て行かなければなりません。自分の物差しをとりあえず横に置かなければなりません。世界に出るために自分の「世界」を出る、これが必要になるのです。そして、この三つの条件はこのことを具体的に迫ってくる内容なのです。
ある本を読んでいたら、この三つ、表現は少し違っていましたが、この三つが「生きる達人の条件」として載っていました。
そして、世界を超え出る、自分の物差しを横に置くというのは、世界布教というフィールドだけのことではなく、信心全体にも言えると思うのです。金光大神様のご信心の醍醐味に「生まれ変わり」ということがあります。自分の大切にしている物差しを新たにしていく、更新していくのが「生まれ変わり」です。それまで日柄方位を守るという物差しを大事にしていた金光大神様が、日柄方位を見るのではなく、お断りを申し上げるという物差しに持ち替えたのも「生まれ変わり」です。このように、金光大神様のご信心には、自分の「世界」を開く働きがあります。
私は、これまでの御用、教会での御用や教務での御用を通して、いつも信心の「世界」を開かされてきました。その開かされた信心によって、私の「取次」の向かい方も開かれました。その開かれ具合が少しでも皆さんに伝わり、皆さんが取次を求め現すお役に立てればということでお話しを進めたいと思っています。
ところで、お道では、ある意味、いろいろなことを「取次」として押さえています。お結界だけではなく、お広前の働きや教会の活動、あるいは友人との語らいといった個人的なことも含めて「取次」と言えなくもない。でも、いろいろある取次の、その元は「結界取次」だと思います。ですから、今日はその根源の「結界取次」について、それも主に「取次の業」について考えていくことにします。
○身代わり信心
◇身代わり救済論
国際センターでは、発足20年を機に、これまでの活動を見直し、その成果と課題を明らかにして、ここからの方向性を求めていくために、昨年「国際センター総括プロジェクト」を立ち上げ協議を進めました。この総括プロジェクトですが、その議論を「昭和29年教規の革新性」ということからスタートすることにしました。国際センターの総括は「教団布教」の総括をすることにもなり、そのためには戦後の教政教務の歩みを振り返る必要があったからです。
そのプロジェクトの最初の会議で、大阪センター次長・渡辺順一先生の発題がありました。渡辺先生は戦後の教政教務を考えるに当たって、その前段階である戦前期(教祖時代~敗戦)の「取次救済」の実際の姿について発題をしてくれました。(資料を見ながら聞いてください。)
これまでも「取次救済」の概念は信仰的、理論的に議論されていきてるものの、お取次で助かるということはあまりにも当たり前のことで、「なぜお取次で助かるのか」という議論がされることはなかったので、そのことをまず考えよう、という発題でした。
渡辺先生は、戦後教団の教勢低迷の理由の一つは、「取次」が概念的に純化され抽象化されていく一方で、取次者の身体性や「救け」を実現するコミュニケーション能力(「神徳」)の部分が見落とされていき、なぜその一対一の関係性において、「救い」(霊験)が実現し得るのかが、実践的に問われてこなかったことによる、という分析をしました。その上で、次のように、戦前の「取次」による「救け」の実際の姿を浮き彫りにしてくれました。
120万信徒を誇った戦前期、金光教のスタンダードな教会の信徒数は数百人から数千人規模でしたが、それは各教会で「霊験」、つまりおかげが立っていたからでした。そうした奇跡的な「霊験」は呪術的行為から生まれていたのですが、こうした教祖時代からの布教者達のさまざまな「救けのわざ」(島薗進氏)が、近代化の中で「結界取次」として定型化(システム化)されてきたことは間違いない、という押さえでした。
その呪術的救済行為、とりわけ病気に関わる宗教的治療の基本型は、取次者が願い主の罪・穢れ(病毒)を一旦自らの身体に引き取った上で、それらの「お取り払い」を神に取次ぎ願う「身代わり救済」であったのです。こうした「おもてがえ」と呼ばれるその代受苦的治療行為は、①病者・怪我人の患部に「お土」を塗る、②取次者が「お神酒」を口に含んで、願い主の身体に吹きかける、③取次者が病者と共に入浴しながら身体を撫でる、といったことでした。これらは普通に行われており、ほとんど全ての教会で「お神酒」「お土」は行われていました。
静岡教会では、「お神酒」は今でも吹いています。「お土」は「お肉さん」と言って頂いていた時期があったのですが、それは今では行われていません。しかし「お土を頂く」ということで、裸足になってご霊地を歩ませていただいたり、自宅のお土地を踏ませてもらって身体の上でおかげを頂く、ということは、一部の方々ですが、行われています。また、「お風呂」ということでは、初代の時代には、初代のお徳を身に受けることを願って、初代の入った後のお風呂に病気の人が入るということがあったと聞いています。
これらの「救けのわざ」はいずれも、取次者の身体を媒介とした、「お取り払い」による霊験授与の行為で、「お神酒」を吹きかける場合は、同時に病者の病毒を吸い取っていたのであって、これらの病気治しの行為は、広い意味で「取次」であり、言葉を媒介とする「取次」においても、その基本構造は踏襲されてきている、というのが渡辺先生の考えです。
では、その基本構造とは何か。渡辺先生はそれを「身代わり救済」であると押さえました。お神酒を吹きかける行為について、なぜ一旦口に含んで吹く必要があるのだろうかと考えた時、息を吹きかけるという行為は、息を吸い込む行為でもあり、それは相手の痛みや苦しみを引き受ける行為に他なりません。お神酒を吹くことで、その難儀を一旦自分の体に吸い取り、それを神様に取次ぐ。ある教会で先代教会長から現教会長へ「自分の助かりを祈りながらお神酒を吹け」との申し伝えがあったという話を聞いた時、渡辺先生は、自分のことを祈らないと自分が同じ病気になる、と確信したそうです。
そして、この基本構造は言葉による取次においても同じで、お結界でいろいろなことを聞いているとこちらも辛くなってくる。言った方はスッキリとして帰るけれども、聞く方は辛い。「願い」というと綺麗に聞こえますが、それは要するに勝手な欲であって、それを受け取り神様に取次いで、神様の願いに祀りかえなければなりません。「それはお前の欲である」と突き返しては取次にならないので、そのまま取次者が引き受けて、神様に「何とか祀りかえてください」とご祈念をすることになります。願いという形で言葉に乗せられたものは、その人間の欲望であり罪穢れであり、それを一旦取次者が引き受けて自分の中に収めるのですが、収めたままならこちらの身体が潰れてしまうので、天地金乃神様に預けていくことになります。そうした働きが「取次」なのだと渡辺先生は説明してくれました。
渡辺先生がこの話を別のところでしたら、ある先生が「ということは、親教会は大事だということになりますね」と言ってきたそうです。それはなぜかと言うと、完全に神様の方へ預け切れたら良いが、残る場合がある。身体の毒だけでなく、心の毒が自分のところに残ったら大変なことになります。それを手続きの流れの中で親教会に引き受けていただく。いわばリスクヘッジです。これは分かりやすく、その意味で親教会は大事であるし、それを辿っていけば最終的には金光様のところへ行くのであるから、金光様が全教の罪穢れをご自身で吸い取ってくださり受け止めてくださり、そうやって最終的に神様に届けてくださっている、という構造になっているのではないか、という発題でした。
◇手続き~「動脈」と「静脈」
この渡辺発題を聞いて、私の中でいろいろなものが繋がってきました。 国際センターの総括プロジェクトの議論のスタートにした昭和29年教規では、「取次の働は、手続によって行われる。手続は、取次ぐものと取次がれるものとの間の取次ぎ取次がれる関係であって、教祖生神金光大神に発する手続のつながりを通して、人間は助かり、教会は生まれ、本教一切の営みは進められる。」とあります。「手続き」というと、親教会と子教会の関係がすぐに思い浮かび、「形骸化」という言葉がそれに続いてくるのではないでしょうか。
この渡辺発題を聞くまで、私は「手続き」を「おかげ授け」、つまり親教会のお徳で子教会がおかげを頂けるという、喩えるなら「動脈」として捉えていました。川上から川下へお徳と恵みが流れ落ちてくるイメージです。しかし、渡辺発題を聞いて、「手続き」は「動脈」だけではなく、「静脈」の働きもあることに気づきました。難儀や無礼、めぐりといったドロドロしたものをすくい上げていってくださるイメージです。この両方があっての「手続き」であり、この両方があっての「取次」である、と。
そしてこのお道にあって、動脈に血を送り込み、静脈の血を引き受けるのが教主取次、金光様のお取次であることがはっきりとしてきました。金光様がありとあらゆる難儀を、無礼を、巡りを引き受けてくださるから救われていくのです。
この渡辺発題を聞いた直後に、静岡のお広前にある難儀が持ち込まれました。40歳代の女性が全身性エリテマトーデスという膠原病の診断を受けたのでした。これは厚生労働省指定の難病で治療法はなく、対処療法をするしかない病気です。体のあちこちに痛みが出て、腎臓の機能が低下したり熱が出たりするのですが、ステロイド薬を投与しながら対応していくしかないのです。とんでもない「痛み」がお結界に持ち込まれました。
でも、その瞬間「これはおかげを頂ける」と思えました。神様が私に渡辺発題を聞かせてくださったのは、このためだったのだと思えたからでした。そこで私は彼女に伝えました。
「実は、私は最近大切なことを教えてもらった」として、渡辺発題の中身、といってもそのままではなく、「お神酒で助かるということを改めて教えてもらった」ことと、「親教会のお徳にすがることによって、難儀をお引き受けいただける」ことを話して、「あなたがこの病気をお広前に持ち込む前に、私がこういう話を聞かせてもらったということは、神様がすでにあなたの病気を引き受ける用意をしていてくださっていると思えてならない。だから、助かりの道はもう開かれはじめているのです。その道をいっしょに進んでいきましょう」と言って、早速お神酒を吹かせてもらいました。その時のご祈念は、今までのお神酒を吹くときのご祈念「どうぞ御神酒のお徳によって、この病を治してください」という「動脈」のご祈念ではなく、「どうぞ、この私、子の年の氏子にこの願い主の氏子の痛み・苦しみをまずは引き受けさせてください。その上は、神様、どうぞ私が引き受けた彼女の痛みや苦しみをお受け取りください」という「静脈」のご祈念から入るようになっていました。しかも、親先生や金光様という「後ろ盾」がいてくださるという安心感がそこにはありました。
また、彼女のお献備は一旦静岡のお広前にお供えした後、親教会、静岡教会の親教会は難波教会ですが、親教会への月参拝の時に、彼女のお献備をお伴することにしました。親教会では親先生に事の次第、「手続き」としての「静脈」の話をお結界で聞いていただいて、「そういうことで、彼女からのお献備を私として親教会に改めてお供えをさせていただきます。どうぞお引き受け、お導きください」とお取次を頂きました。そして親教会でお下げいただいた御神米を彼女に手渡しました。彼女は静岡教会と親教会の御神米を頂くことになったのです。それ以後、親教会の参拝の度に、前回の参拝から今度の参拝までの間に、彼女から静岡のお広前にお供えになったお献備をお伴し、病気や治療の様子をお取次頂いております。また、彼女の参拝の度毎に、「身代わり救済」のご祈念を込めてお神酒を吹いております。体調の波はありますが、差し支えなく仕事に行けておりますし、彼女が一番心配している脳への痛みの発症はまだありません。
先日も、腎臓の機能が低下しているということで検査入院をすることになり、そのお願いに彼女が参拝しました。そして、前々から決めていたことですが、その検査の前日が親教会に参拝する日だったことから、これも神様のお繰り合わせ、すでに神様がお働きくださっている証であることを彼女と確認をして、その神様のお働きの中での検査であることにお礼をしましょうと、伝えました。そうやって、一つひとつの神様のお働き、親教会参拝もそうだけれども、入院に関わる仕事のお繰り合わせ、現在の体調や食欲など、一つひとつのおかげをジグソーパズルのワンピースのように大切にあてはめていくと、神様の助かりの絵柄が浮かんでくるから、そういうつもりでお礼をしながら検査を受けましょう、と話しました。
静岡の初代がお国替えをして、今年で70年になります。その初代が亡くなる前日「ご本部と難波親教会さえ頂いていれば間違いない」という言葉を家族に伝えました。それが最期の言葉でした。私は今回のことを通じて、「間違いない」という初代の言葉を噛みしめています。なぜ、静岡のお広前のお取次は成り立ってきたのか。初代は助かるための「手続き」の大切さを実感していたのです。
こうしてお取次における「動脈」と「静脈」という助かりの筋道がはっきりしてきたので、それからは、お取次の場でまずは「大丈夫」と言えるようになってきました。
◇成り代わって
それともうひとつ、「身代わり救済」ということで、渡辺発題を聞く前に経験させられたことがありました。一昨年11月、ご信者さんが男の子と女の子の双子を出産しました。その妊娠出産にまつわる経験です。
結婚してしばらく妊娠の兆しがなかった彼女は、一昨年3月20日に病院で検査を受けました。その結果、ホルモンが弱く妊娠しにくい体質なので服薬の治療をすることになったと、お願いのお取次がありました。そしてそれから一ヶ月も経たない4月12日、彼女から妊娠5週目だというお礼のお取次があったのです。服薬治療が始まる前に懐妊していたのでした。神様から頂いた新しいいのちにいっしょにお礼をさせていただきました。その後、つわりが始まり、5月には双子であることが判明しました。
そして7月1日の夜。彼女から教会に電話がありました。夏風邪を引いて咳が治まらないので受診した。咳が続いて夜も眠られず辛かったので、医者に頼み込んで薬を処方してもらった。とは言うものの、医者もあまり服用を勧めなかったし、自分もなるべく飲みたくないので咳が治まるようにお願いしてほしい、という内容でした。「お医者さんがあまり勧めないと言うなら、薬は飲まないようにしなさい。そのために御神米でおかげを頂こう」と伝え、私もそのようにご祈念をしました。
しかし、それから三日後に彼女から「咳が治まらず苦しかったので、お願いしながら薬を飲みました。それで咳もだんだんと治まってきて、今日はだいぶ楽になりました」というお礼の電話がありました。この電話を受けて、正直私自身の力のなさを感じました。そして薬の副作用がありませんようにとお願いしました。
すると、それからしばらくして、彼女はお腹の痛みや張りを感じるようになりました。その度に彼女は神様にお願いをし、私もお願いをさせていただきました。彼女の妊娠を誰よりも喜んでいた私の妻もその度にご祈念をしていました。暑い夏を何とか通り越した9月、早産の危険が出てきてました。12月中旬の予定日までとは言わないけど、せめて妊娠32週までは保たせたいと考えていた医者からは入院を勧められましたが、彼女は自宅で安静にすることを選択しました。けれども9月末にはとうとう入院することになりました。絶対安静です。トイレも自分で勝手に行くことは許されない状態でした。
こうした状態を迎えて、私たち夫婦の中ではある思いが大きくなってきました。あの咳止めの薬のことです。お取次を頂いて「飲まないように」と言われたのに飲んでしまった。苦しかったにせよ、お取次の言葉に従えなかった。「ご無礼」という言葉が繰り返し浮かんできました。
もちろん、取次者として彼女の服用を止められなかった私の力不足のお詫びはそれまでもしていましたが、それだけでは足りないようです。何とか彼女にはお腹の双子とともにおかげを頂いてもらいたい。そのためにどうしたらいいのか。彼女に私たちの思いを伝えて、いよいよ彼女自身にお詫びをさせるしかないのではないか。でも、今いちばん苦しんでいる彼女、いちばん不安になっている彼女にそれを伝えていいのだろうか。余計に不安を背負わせることになりはしないか。それが「おかげ」につながるのか。私たちは夫婦で祈り、話し合いながら次のような結論にたどり着きました。
「彼女に成り代わって、私たちがお詫びをしよう」
本人ではないけれども、その彼女に「成り代わって」私たちがお詫びをすることで、そのお詫びを神様にお聞き届けいただけるのなら、それが彼女自身がお詫びしたこととして神様にお受け取りいただけるのなら、そうさせてもらおう、と決めました。私自身の力不足のお詫びに加えて、彼女に成り代わってのお詫びのご祈念に取り組むことにしたのです。
これは後でも触れることになりますが、私たちが難儀なことに出会うのには、大きく分けて四つの理由があります。その四つとは、明治6年10月10日の御神伝にあります「おかげを知らず」「わけを知らず」「無礼いたし」「前々の巡り合わせ」です。彼女の難儀さもこの四つから来ているのは間違いない。特に「無礼いたし」ということに私たちはひっかかりました。でも、このことを苦しんでいる彼女に伝えるのではなく、今回は彼女に「成り代わって」私たちがお詫びすることを選んだのでした。
10月中旬には、11月25日に帝王切開で出産することが決まり、そこまで約一ヶ月何とかお腹の子どもたちを保たせようということになりました。10月末には強いお腹の張りが起きて陣痛室まで運ばれましたが、何とか張りも治まりました。その都度彼女やその母親からお取次の電話があり、その度に神様にお願いするとともに、彼女に成り代わってのお詫びのご祈念をさせていただきました。11月に入ると毎日彼女からお取次の電話がありました。彼女には「ここまでの神様のお守りとお働きに、ただただお礼を申し上げていくように」と伝え、成り代わってのお詫びのご祈念を続けました。そうして11月21日、予定していた日よりは少し早くなりましたが、無事男の子と女の子を出産しました。
この経験は、結局彼女に「無礼いたし」ということを伝えきれなかった私の力不足という課題を突きつけました。教導ということではこれでよかったのか、反省すべきことは多々あります。が、それと同時に、「氏子に成り代わって」というご祈念のあり方、あるいはそういうお取次のあり方を私に開いてくれました。
こうして「身代わり救済」や「氏子に成り代わって」に取り組んでいくことで、「なぜ取次で人が助かっていくのか」という、冒頭の渡辺先生の問いかけにだんだんと光が差し込んできました。そして、その光は金光大神様のご信心の大切なところも明るく照らしてくれました。
◇「差し向け」から「身代わり」へ
それが金光大神様が最後に頂かれたお知らせ「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため。」(覚帳27-15)です。
「願う氏子におかげを授け、理解申して聞か」せるために差し向けられた金光大神様は、たくさんのいのちを救い助けてきました。しかし、もっともっと多くのいのちが救われていくために、神様は金光大神様のいのちを「身代わりに」させたのでした。なぜそうしなければならなかったのか。これだけお徳の高い金光大神様、おかげを授ける力に充ち満ちている金光大神様をして、なんで「身代わりにさする」必要があったのでしょうか。
渡辺先生によると「大願の氏子」とは金光大神様のご信心にご縁を頂かれた人たちを指し、「人民」とは未だご縁を頂かれていない人たちのことなのだそうです。金光大神様ご在世中の人々だけでなく、未来につながる時間の中で次々生まれ来る「人民」の助かりに向けての、神様と金光大神様の最終的な救済の形が「身代わり」でした。そうまでしないともっとたくさんの人が、そしてその一人ひとりのいのちが助からなかったのでした。
「おかげを授け」という動脈だけでなく、それに「身代わり」という静脈が加わって、いよいよ名実共に「取次助け」が出来ていく。それに向けての神様と金光大神様の「覚悟」の現れがこのお知らせだったのです。おかげを授けるだけではなく、めぐりも難儀も引き受けていくための「覚悟」を確認するお知らせだったのです。金光大神様のご晩年にみなぎる緊張感は、この「覚悟」が醸成していくための張りつめた時間の流れだったのです。
「身代わり救済」と「氏子に成り代わって」ということから見えてきたものは、「生神金光大神御取次」とは、こうした動脈と静脈両方を含み込んだものなのだ、ということでした。
○お届と徳
さて、お取次では「お届け」ということを言います。私たちのお願いやお詫び、お礼をお取次によって神様に届ける、届けてもらうということです。
私自身のことを振り返ってみても、お願いもお詫びもお礼も行き届いていないことが殆どです。行き届かないということは、文字通り神様に「届かない」ということで、お礼がお礼に、お詫びがお詫びに、お願いがお願いになっていないのです。そんな私たちのお礼やお詫びやお願いが神様に届くようにしてくださる働きがお取次なのです。自分でするお礼やお詫びやお願いが足りなくて神様に届かないのなら、そこを足してくださるのがお取次なのです。そして、この足りない部分をどれだけ足せるのか。その足す力をこのお道では「お徳」と言ってきたのではないでしょうか。取次者の力=徳によって、足りないところが補われて神様に届いてしまう。「徳者」と言われる先人達のことを思い浮かべると、皆その足す力が漲っていました。ですから、私たちも取次者として、少しでも足す力を身につけなければなりません。双子を出産した彼女のように、信者さんは足りなくて当然なのです。お礼がお礼に、お詫びがお詫びに、お願いがお願いになっていないことが殆どです。そこをどう足していくのか。それが「おかげを授け」であり、その次にご信者さん自身が届ける力を身につけるように導いていくのが「理解申して聞かせ」ということなのだと思います。
では、その足す力=徳を身につけるために取次者はどうしたらいいのか。私は「祈念」と「理解」と「修業」が大切だと思っています。
◇「祈念」
「祈念」については、「氏子に成り代わって」のご祈念ということでの私の経験を聞いてもらいました。そうとして、ここでも重要なのが「覚悟」ということです。特に四つの難儀の元、「おかげを知らず」「わけを知らず」「無礼いたし」「前々の巡り合わせ」について、「成り代わって」お詫びをするということは、その本人に成り代わって難儀そのものも引き受ける覚悟がなければならないということです。その覚悟がなければ、取次者のお詫びがお詫びにならないからです。そういう「覚悟」をもったご祈念が出来ているのか。「静脈」の手続きによって、後ろに親教会が、金光様が控えていてくださるとしても、一旦はこの身に引き受けていくことになるのですから、やはり「覚悟」が要ります。
よく「命がけのご祈念」とか「この命に代えても」とご祈念をされた先師のお話しがあります。死にそうな病気などといった、問題が重大だからだけではなく、難儀の元が根深いから命がけになる。本当に命をかけた覚悟がそこには垣間見えます。その性根が据わったご祈念がどれだけ出来ているのかで、届く力・届ける力の強弱は変わってくると思います。
それでもいきなり力がつくわけではないので、届ける力・足す力が弱かったら、そこは時間をかけて少しでも足していけるようにするしかない、とも思います。この「時間をかけて」というのは、この講話の最後の方で改めて取り上げます。
◇「理解」
それと「理解」です。お礼がお礼に、お詫びがお詫びに、お願いがお願いになっていくには、「信心の筋道」が大切です。この筋道をつけていくのが「理解」です。信心の筋道が分かるようになれば、届けやすくなる、ということです。道が分からずに迷っていては届けるのに時間がかかりますが、最適ルートが分かれば、早く届けられる、ということだと思います。「理解」はおかげへのナビゲーションシステムなのです。この「理解」を「教義」と受け止めてもらってもいいかもしれません。
十年ほど前にこのお道のご縁を頂いたAさんという夫婦がいます。このAさん夫婦は入信以来、経済の問題を抱えていました。その都度お導きを頂いて難しいところを通っては来たのですが、一息つくところまではまだまだという状況でした。が、ここに来て少しずつ経済の上でおかげが頂けるようになってきました。思いがけないお働きがあって、上向いてきたことを夫婦で実感できるようになり、そのお礼に先日参ってきました。夫婦の「ありがたいです」というお礼を聞いて、私も「ありがたいなあ」と思いつつ、何か物足りないものを感じていました。それは「なぜおかげを頂けたのか」ということでした。その「筋道」が分からないとお礼がお礼にならないと思えたのです。そこでしばらくAさん夫婦の話を聞いていました。するとその奥さんが「先生、こんなにおかげを頂いているのに、まだまだ自分のわがままや欲が出ることがあって、神様にお詫びしているのです」と言いました。私は「これだ」と思いました。
そこで、「Aさん、今まで『お詫び』なんて考えたことありましたか」と尋ねました。「いえいえ、とにかく今までは、おかげが頂けるようにお願いすることにばかり夢中でしたから。それでもお広前に足を運び、お話を聞いていくうちに、私たちはこれでいいのかな、と思うようになってきたのです」。
この返事を聞いて私は「ああ、そういうことなのか」と分かりました。
「Aさん、今まで考えてもいなかったことを考えるようになる。気にもしなかったことが気になるようになった。それは信心によって考え方が変わってきたからです。いや考え方だけでなく生き方が変わってきたのです。これが『生まれ変わり』ということです。あなた方はご信心によって生まれ変わったのです。私はそのことがありがたい。経済の上でお繰り合わせを頂いたこともありがたいのですが、あなた方の生き方が信心によって変わってきたことがありがたいのです。経済お繰り合わせという『事柄のおかげ』もさることながら、生き方が変わっていくという『信心のおかげ』を頂いていることがありがたい。このことを改めていっしょにお礼をさせていただきましょう」と言いました。
この「信心のおかげ」とは、言い換えれば、神様との間柄が深まっていくことです。教主金光様のお言葉「神様との縦軸」が強く太く確かなものになっていくことです。Aさん夫婦は神様との縦軸がより強くなっている。神様との間柄が近くなってきている。このことが何よりの「おかげ」であったということが、お取次ではっきりとしてきました。
私が心がけていることですが、自分の縦軸を意識していないと、信者さんの縦軸の様子に気が回らなくなり、いっしょになって事柄だけで終始してしまうことがあります。「経済のおかげを頂いたの、良かったね」で終わってしまうのです。でも、事柄の良し悪しには人間の物差し(価値)が入り込みやすいので注意しなければなりません。横軸に流されやすくなってしまいます。その時のその信者さんの縦軸がどうなっているのか。そこに目が向き、その「神様との間柄」=縦軸を確認していくことが「理解」であり、「教義」ということなのです。それによって「信心の筋道」がはっきりとし、届くルートがはっきりしてきて、取次者も信者さんも届ける力がだんだんと身についていくのです。「理解」や「教義」とはこういうことだと思います。
このように「理解」のためには、やはり取次者自身の「神様との縦軸」が大切なのです。そして、この縦軸を培っていくのが「修業」です。この修業については、この後でお話をします。
○取次の業
最初に触れたように、国際センター総括プロジェクトを進める中で、昭和29年教規を再評価することが大切であるということになりました。この29年教規というのは、「道の道たるところ」を現すために「教団」という形をどう作り上げていくのかという大きな課題に取り組んだ結果、生まれてきたものです。そうして生まれてきた形、すなわち「生神金光大神取次の道の実現体」の中心に「教主金光様」を頂くことになりました。それが「教主統理」ということです。
その上で「取次の業」と「手続き」をもって「生神金光大神取次の道」ということを表現しようとしていました。教祖広前の流れをくむ本部広前で御神勤くださる教主金光様が「取次の業」を伝承し、その「手続き」によって各広前が教祖広前の延長になっていく、ということでした。
ところで、この29年教規の審議がなされた時には、その「取次の業」については決定的なモデルがありました。それは三代金光様です。その御神勤のお姿が「取次の業」そのものであり、それに「神習う」ことが取次者の御用となっていました。ところが、近代化という時代社会の作用なのか、その「取次の業」ということが理念化され抽象化されていく中で、この中身がだんだんと曖昧になってきているのではないか、ということが総括プロジェクトでも度々議論されました。この「取次の業」の曖昧さこそが、「取次とは」ということを教団的課題にしていかなければならない現在の状況を生んでいると思えてなりません。そうであるのならば、ここで改めて「取次の業」ということを具体的に考えてみることが大切だと思います。
先ほど、取次における足す力=徳を身につけるためには、「祈念」と「理解」と「修業」が大切だと話しました。そして「修業」については改めてお話しするということでした。ですから、ここからは修業として取り組むべき「取次の業」、文字通り身に修めるべき業ということで、私が考えた「業」の中身を具体的に示しながらお話しを進めることにします。
皆さんは「取次の業」というと、どんな中身を思い浮かべますか。「業」というからには、それは「わざ」であり、「型」であり、「見習うべきもの」でもあり、「真似てみたくなるもの」でもあって、すべて具体的な中身を伴います。
私は「取次の業」として次の四つの具体的な中身を思い浮かべました。それは①座る、②聴く、③祈る、そして④話す、です。
◇①座る
まず、①座るですが、これは金光大神様がお取次を神様から依ざされた「立教神伝」がその根拠です。立教神伝によって「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕」ることになった。それが座る根拠とされていますが、これをもう少し掘り下げてみたいと思います。ここからは、私の勝手な解釈で話を進めますので「その分に承知してくれ」です。
この立教神伝が下がる前に神様は金光大神様に「色紙五枚買うて来い、とお知らせ。紙買うてまいり、お願いあげ。五枚重ねて、七五三のちぢみつけて幣切り。幣串かねで二尺五寸、改めあげ、とお知らせ。できしだいに、お改めお願いあげ。」(覚書9-2)という指示を出します。
金光大神様にお取次をお頼みなさるに当たって、神様はなぜ「幣」を調えさせたのでしょうか。家業を止めることを求めるのに、その覚悟を金光大神様に迫るのに、なぜ神様は幣を作らせたのでしょうか。
実は、この「幣」という道具立てがポイントなのです。この幣に重大な意味が込められていたのです。
立教百五十年のお年柄に開催された教会長信行会で、当時の佐藤光俊教務総長は、この幣を作ることについて、次のようにお話ししております。(資料を見てください。)
「この幣切り境に……」という冒頭の一句は、日常的な時間から非日常的な信仰的時空観念へと誘導する象徴的な言葉であり、その意味でも画期が示されています。
一般にも儀礼の根底には、ある世界観が存在し、儀礼はそれをダイナミックに表象する象徴体系であるとされていますが、「幣を切」るという行為自体が、日常的時間観念から分離され、非日常の神の世界へと導かれていると見えます。儀礼が神と人との交流としての供儀(供え物をする儀式)という意味を持っているのですから、麦まきが終わって神様に御礼申し上げたら、「色紙五枚買うて来い」とお知らせがあり、買ってきた旨を申し上げると、五枚重ねて、七五三のちぢみつけて幣に切って、幣串二尺五寸とご指示があり、でき次第に改めて拝礼されたのであります。そこで、あの立教神伝の内容が書かれているのであり、こうして私的な信心が、個人から解放され、広く「世間に何ぼうもあ」る難儀な人々の助かりの道が開かれたのであります。
として、神様の御用にお使いいただくための区切り=「画期」をつける儀礼という押さえ方をしています。この佐藤先生の解釈に異議を唱えるつもりは毛頭ありません。その通りだと思います。ところが、それだけではなぜ「幣」なのか、「幣」を作らなければならなかったのかがはっきりしません。そこを明らかにするために考えたのが、これから話す私の解釈です。
「幣を作れ」と言われた金光大神様はきっとあのことを思い出したのに違いありません。もうお分かりでしょう。四十二歳の大患の出来事です。金光大神様にとって「幣」は、四十二歳の出来事を思い出させる「装置」として働いたのです。
のどけという病気で生死の境にあった金光大神様は、神がかった古川治郎さんと八百蔵さんとのやりとりを聴いて「凡夫の自覚」を強くし、神様に自分自身のご無礼をお詫びしました。その金光大神様の態度に、神様はこれまでの経緯を改めて振り返りながら、実はないいのちだったが「信心の徳をもって神が助けてやる」ことになったことを伝えた上で、こう続けます。
「五月一日には霊験を授けてやる。今晩のうちに金神をはじめ神々へお礼に心経を百巻奏上せよ。また、妻は七日の間、衣装を着替えて、石鎚の神へごちそうとして香、灯明、それに五穀を供えよ。日天子が、戌の年の頭の上を、日々正午には舞って通ってやっている。戌の年、一代、壮健で米を食べさせてやる」と告げ、この言葉が終わるや否や、治郎さんが手に持っていた御幣が、そこにあったへぎ盆の上へ引き付けられるようにして下がり、供えていた大豆と米が、御幣に付いて上がったのでした。そして「これを盆に受けて、かゆにして戌の年に食べさせよ」との重ねてのお告げがあり、盆で受けると、付いていた大豆と米が、ぱらぱらと落ちるという不思議な光景が繰り広げられたのでした。
「幣」によって思い出させられた出来事とは、このことです。金光大神様が神様と出会った出来事であり、いのちを助けられた出来事であり、生まれ変わった出来事でした。
神様から言われたとおり色紙を買ってきて幣を作っていた金光大神様は、あの日の出来事を思い出しながら、「神様は私に今度は何をさせようとなさるのか」とドキドキ、ワクワクしていたことでしょう。「幣」を作りながら、今回神様がなさろうとしているのも、あの時と同じように、自分のいのち、生き方が大きく変わる何かであること、生まれ変わりを促す何かであること、神様との間柄が大きく展開していく何かであること、を予感していたに違いありません。
こうして幣を作り上げた金光大神様に神様は「家業をやめてくれんか」とお頼みになられます。それは、金光大神様の予感そのままに、生き方の変更、生まれ変わりを求めるものであり、神様との間柄をより強く確かなものにしていくお頼みでした。
「そうきたか」。神様から助けられたいのちであることを再確認しながら幣を作っていた金光大神様に神様は念押しをされます。「その時死んだと思うて」と。幣を調えながらご自身の心も調えられていた金光大神様ですから、しかも神様も情理を尽くしてお頼みになられていますから、もう覚悟は出来ていました。「幣」とは、こうした心の動きを金光大神様に催させる装置だったのです。
それともう一つ、「幣」には別の意味が込められていました。神様は治郎さんのお告げの中で「氏神をはじめ神々はみなここへ来ている」ことを金光大神様に伝えています。その神様が来ている証、神様がここにいる証が、幣に大豆と米が付いてきて、しかもそれがぱらぱらと落ちるという不思議な光景でした。そうです、「幣」のもう一つの意味とは、神様がここにいることを示す「依り代」だったのです。
少し難しい言葉になりますが、神様には「遍在」と「偏在」ということがあります。「どこにもいる」という「遍在」と、「ここにいる」という「偏在」です。天地金乃神様はどこにでもいてくださる神様です。その意味では「遍在」ですが、それは「ここにいる」ということと矛盾することではありません。「どこにもいるけど、ここにもいる」。「遍在」と「偏在」が両立する神様です。
ですから、四十二歳の時に「神様がここへ来ている」ことを見せつけた「幣」を通して、この立教神伝の場面でも神様は「ここにいる」ことを金光大神様に示したのだと思います。
「難儀な氏子を取次助けるために、神はここにいるから、お前もここにいてくれ」と。
以前、「金光教を一言で表すと何と言いますか」と質問されたことがありました。その時私は「金光教は『寄り添う宗教』です」と答えました。それは天地金乃神様という神様が寄り添ってくださる神様だからです。宗教はその神様がどんな神様であるかが、その宗教の色合いに反映してきます。そして、天地金乃神様は私たち一人ひとりに寄り添うために、金光大神様にお頼みになられて、お結界という寄り添う場を開かれ、お取次を依ざされたのです。そういう神様なのです、天地金乃神様は。
そんな天地金乃神様ですから、一方的に金光大神様に家業をやめてお広前に座るように頼むわけがないじゃありませんか。「私もここにいるから、お前もここにいてくれ。そしていっしょに難儀な氏子を取次助けていこう」と、寄り添ってくださることを金光大神様に伝えたのです。
こうなったら金光大神様としては「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕り」ということで、お広前にお座りになるしかありません。
「立教神伝」は「取次広前の誕生」を意味します。「私もここにいるから、お前もここにいてくれ」ということで取次広前は生まれました。ということは、どこの教会も取次広前である以上、今でも「私もここにいるから、お前もここにいてくれ」なのです。それならいるしかないでしょう。座るしかないでしょう。難儀な氏子を取次助けるために神様がいてくださるのがお広前なのですから。だから、座るという業に取り組むことで、縦軸が出来ていくのです。
これは金光清治先生から聞いたお話ですが、金光様は毎朝お出ましくだされてお広前にお入りになる時「ただ今でございます」と仰せになられるそうです。金光大神様が取次広前をお開きになられてから、ずっと神様がいてくださる本部広前。いや、天地金乃神様だけでなく、金光大神様も、二代金光四神様も、三代金光攝胤様も、そして四代金光鑑太郎様もいてくださるお広前にお入りになる金光様の「ただ今でございます」のお言葉に、「取次の業」ということが何なのかが、はっきりと見て取れるのです。
それともうひとつ。四十二歳の出来事で、神様は「戌の年、一代、壮健で米を食べさせてやる」と告げた後、幣に付いた大豆と米を「かゆにして戌の年に食べさせよ」と指示しました。そうなんです。幣は食べて行くことを神様が請け負った証です。それをここでまた持ち出してきました。家業をやめてお広前に座ることを促しながら、これからの生活に不安を抱えている金光大神様とその家族に対して、神様は幣を通じてこれからの生活を請け負うことも示したのでしょう。そこまでの神様のご配慮は、今でもどの取次広前にも注がれているはずです。
◇②聴く
次に②聴くです。お取次で「聴く」ことの大切さは、これまでにもいろいろと確認されてきました。「痛かろう」ではなく「痛い」という受動受苦的な受け止め方でなけらばならないとか、ありのままにそのままに聴く態度が重要であるといった内容です。
私はこうした内容をより深めていこうとして、「身代わりになる」ために「聴く」、「成り代わる」ために「聴く」というあり方を考えています。痛みや苦しみを神様に届けるために、神様に届くようにするために、願い主に「成り代わって」祈れるようになりたい。そのために何をどう聴いたらいいのか、ということです。
このためのキーワードを「当事者性」としました。
先ほど「事柄のおかげ」と「信心のおかげ」というお話をしました。身の上に起こってくる出来事、つまり事柄を捉えて「おかげ」であるとか「難儀」であるとかと私たちは言っていますが、その事柄をもう一つ掘り下げて見ていく必要性を分かってもらいたかったのです。そして、先ほどのAさん夫婦の事例は「おかげ」ということについてでした。「事柄のおかげ」を生み出す「信心のおかげ」はどこにあったのか。その時の神人関係はどうなっていたのか。そこに焦点を当てていくということを考えました。
そこで、今度は「難儀」についても、同じように掘り下げていくことの必要性、特に「当事者性」をもって「聴く」ことで「難儀」を掘り下げていく必要性を訴えたいのです。
お結界には、それこそいろいろな「事柄の難儀」が持ち込まれます。心身の病気、経済や家計の行き詰まり、人間関係の問題など、その「事柄の難儀」の様もそれぞれです。そうしたそれぞれの「事柄の難儀」に対して、「当事者性」をもって「聴く」というのはどういうことなのか。
これは、双子を妊娠した女性の話の時、後で詳しく触れると前置きして説明しましたが、私たちが難儀なことに出会うのには、大きく分けて四つの理由があります。その四つとは明治6年10月10日の御神伝にある「おかげを知らず」「わけを知らず」「無礼いたし」「前々の巡り合わせ」です。
話は少しそれますが、この明治6年10月10日の御神伝が、三神伝として何故大切なのか。もちろんご承知のことでしょうが、このお知らせには、「人間が何故難儀をするのか」ということがはじめに述べられており、その人間を救おうとしての「氏子、信心いたしておかげ受け」という神様の思いが伝えられ、その「信心いたして」いくために、神様は生神金光大神様というお取次の神様を差し向けられてことが書かれています。続いて、そのお取次のお働きとお徳によって、足りないところを足してもらって、おかげが授けられる。そして、理解という信心の筋道を教えてもらうことで、難儀を生み出す生き方が改まっていくことになる、ということが示されています。そうして生き方が改まっていくとどうなるのか。「末々繁盛いたすこと、氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つように」なるのだよ、という助かりの姿を示して、お知らせは終わります。
「なぜ助かるのか」「なぜ難儀をするのか」という問いへの答えをキリスト教神学では「神義論」と言うのですが、この明治6年10月10日の御神伝は、本教の神義論と言えるのではないでしょうか。だからこそ、三神伝の一つとして大切にされてきたのです。
氏子が持ち込む「事柄の難儀」に耳を傾けながら、その奥にある「事柄の難儀」を生み出すもの、すなわち明治6年10月10日の御神伝に示された難儀の四つの理由、これを私は「いのちの難儀」と呼んでいるのですが、そこに思いを馳せることが出来るのか。「事柄の難儀」ではなく「いのちの難儀」、つまりいのちや生き方が抱えている難儀に目を向けることが出来るのかどうかで、受動受苦の地平が変わってくると思えるのです。
ところで、「いのちの難儀」と言う時の「いのち」は漢字の「命」ではなく、ひらがなで書く「いのち」です。
この「いのち」ということについて、宗教哲学者の上田閑照(しずてる)という人が、人間の「生きる」ということには、「生命」と「生」と「いのち」という三つの次元があると言っています。まず「生命」という次元ですが、あらゆる生きものは、科学によって解明が可能だとする「生きる」ことの捉え方で、生物学や医学などがそうです。次の「生」は、生活とか人生という人間的、文化的なレベルで「生きる」ことを考える捉え方です。哲学や倫理、生活規範や道徳などが「生」の意味を考えようとしています。
そして最後のいちばん深い次元が「いのち」という捉え方です。これは「物のいのち」とか「仏のいのち」といった根源的なレベルで「生きる」ことの意味を問う見方で、文学や芸術、宗教がこれに取り組んで来ました。
そして、上田閑照先生は宗教哲学者なので、信心とは、この三つの次元すべてで「生きる」ことを考えなければならないと言っているのです。
これから「いのち」という言葉が何度も出てきます。その意味は、先祖からこの私へ、そして子孫へと繋がっていく川の流れのようなもので、そこには遺伝といった医学的な「生命」の部分と、家の歴史や生活の仕方といった「生」の部分ももちろん含まれていますが、先祖からこの私に伝えられ受け渡されてきている、良いものも悪いものも含み込んだ、別の言い方をすれば「徳」も「めぐり」も含み込んだ、自分自身が抱えているものすべてを指していると思ってもらえればいいでしょう。そうは言われてもピンとこないかもしれませんが、「いのち」とはひらがなで書くものだ、ということだけは意識して聞いてください。
そうとして、「当事者性」とは別の言い方をすれば「私と同じだ」「私もそうだ」ということです。私の場合は、病気なら病気、経済なら経済、人間関係なら人間関係といった問題に対して、事柄レベルで「同じ」になりきるのは難しいです。でも、その問題にある根っこ、その問題を生み出す四つの理由=「いのちの難儀」ということでは、「私と同じだ」「私もそうだ」と言える場合が多々あります。
「おかげを知らず」ということでは、この私もどこまでおかげを自覚し、お礼が出来ているのか。「わけを知らない」ということでも、生かされているという天地の道理を知らずに難儀しているという点では、私も同じです。「無礼いたし」では、ばかり見て、わが力や計らいでやろうとする生き方がなかなか改まっていかない私ですし、神様を使うばかりの生き方から抜け出せない私です。そして、「前々の巡り合わせ」で難儀を受けているのは、まさにこの私そのものです。こうしたいのちの難儀の地平に立てたとき、あるいは立とうとするとき、「当事者性」は生まれてきます。「事柄の難儀」の根っこには、いのちや生き方が抱える難儀、「いのちの難儀」がある、という意味では、問題をお結界に持ち込む氏子も私も「難儀な氏子」なのです。
特に「前々の巡り合わせ」ということでは、「当事者性」を実感させられます。
あるお寺で、檀家さんを対象にした一泊研修会がありました。その研修会の冒頭、そのお寺の和尚さんが次のような挨拶をしたそうです。
皆さんは、普段み仏のお守りをいただくために、生き方の調子を整えようとお寺にお参りをされます。お寺は寺院とも言いますので、参拝を通じてお整えを頂くのは「通院」と考えていいでしょう。では、今回の泊まりでの研修会はどうなるのか。そうです、今回は「入院」ということになります。この研修会を通じて、じっくりと生き方の治療に当たってください。
うまい言い方をするなあと思いました。それと同時に、教会で生まれる、あるいは教会で生活をするということは、どういうことになるのだろうと考えました。教会の先生や教会家族は、参拝者の治療をしたり、そのお世話をする立場なのですが、それだけではなく、教会にいることで神様のお働き、つまりお手当を受けているのも事実です。この意味において、教会家族は「長期入院」を神様に求められているのではないか、と思いました。それだけ長く神様のお手当を頂かなければならないほど、生き方が、あるいはいのちの調子がおかしくなっているのではないかと考えると、自分のいのちの受け止め方に違った視点が加わってきました。
教会に生まれなければならなかったいのちが、この私です。お広前のお下がりで育たなければならなかったいのちが、この私です。そして、お広前で、神様のそばで御用しなければ立ち行かなかったいのちが、この私です。それだけ難儀ないのちだったからこそ、逆にそれだけ神様が目をかけてくださっているいのち。そうまでして神様が手間暇かけなければ助からなかった難儀ないのちが私だったということです。私のいのちはそういうものを抱えて生まれ出てきたのですから、「前々の巡り合わせ」、めぐりはとてもとても深いものだと思います。
ないいのちを神様によって助けていただいた静岡の初代は、そのお礼に参拝したご本部で二代金光四神様のお取次を頂いて、お道の御用に立つようになりました。そうして誰一人知る人のいない静岡で御用にお使いいただく中で、ある事を知らされます。それは岩﨑の家にまつわる「めぐり」についてでした。ある先生が初代の先祖についてお知らせを頂き、そのことを初代に聞かせてくれたのです。
それによると、初代の祖父が事件を起こし、その結果お坊さんを殺めてしまったそうです。袈裟殺しとか長袖殺しといって、それはとても重い罪、刑法とかの罪だけではなく、罪穢れの罪を初代の祖父は犯していて、それによって岩﨑の家は七代祟られることになっている、という話でした。この話は初代から伝えられていて、今でも岩﨑の家ではそのお坊さんを「長袖の霊」としてお祀り申し上げております。そうとして、ここからは、私の想像で話を繋いでいきます。
この話を聞かされた初代は「そういうことだったのか。それだけめぐりの深い家だったのか」と思ったに違いありません。そのめぐり故に自分は九死一生の病気になり、試みた商売もうまくいかず、布教してからも子どもに先立たれ、という難儀が押し寄せてきたのか、と納得したはずです。そして、それと同時に、「だから神様はこの私を信心の道に誘ったのだ。神様のお側に置いてまで、この難儀ないのち、難儀な岩﨑の家を救おうとしたのだ」と、自分が神様の御用にお引き立ていただいた、本当の理由が分かったのだと思います。
ないいのちを助けていただいたお礼に御用に立つようになった。これは初代の側、人間の側の見方であり、神様の方からすれば、信者として信心していただけでは助からないいのち、御用しなければ助からなかった自分のいのちであり、岩﨑の家であったことがはっきりとしました。そういう、めぐりの深い難儀ないのちだからこそ、そのいのちを助けようとして、神様はお広前という神様のお側においてまで信心をさせようとしていたことに、初代は気づいたのだと思います。
その証拠に、この神様の思いに応えるためにも、めぐりの深いこのいのちが救われていくためにも、初代は「お広前のお下がりでお育てを頂いた者はみな教師になるように」という願いを立て実行されました。初代が抱えていためぐりは、それに続く者も信心しないと、御用しないとお取り払いいただけないほどの深いものだったことが、初代は分かっていたからです。そして、そのいのちは私にも受け渡されてきているのです。
実は、この話には続きがありまして、祖父の袈裟殺しの話を聞かされ、七代祟ると言われた初代でしたが、その話を教えてくれた先生は、こういうことも言ってくれました。「初代の信心の徳で、七代が五代に減った」と。初代の祖父がしでかしたことで五代祟るということで、初代の父、初代、そしてその子、孫、そしてひ孫までがその範囲に含まれます。私の父は初代のひ孫に当たり、私はセーフです、と言いたいこところですが、岩﨑の家の「めぐり」は袈裟殺しだけではありません。代々の者が知らず知らずの、あるいは知りつつのご無礼不行き届きをしてきており、それがめぐりとなって、「巡り合わせ」として積み増され、いのちの中身として受け渡されてきている。これも間違いのないことですし、私自身も数々のご無礼不行き届きをしてきています。そういう難儀さを抱えている私のいのちなのです。
私の妻も同じです。妻は信徒から教師になり教会に嫁いできました。妻もそうしなければ助からなかったいのちです。ということは、妻も深い「めぐり」を抱えています。その二人の間に生まれた私たちの子ども、息子と娘も同じです。だからこそ、私たち家族が抱えている「前々の巡り合わせ」という「いのちの難儀」について、そうやって手間暇かけて時間をかけて粘り強く救おうとしてくださる神様の思いに応えるためにも、そして私たち夫婦と子どもたちのいのちが助かっていくためにも、私たち夫婦と同様に子どもたちも神様の御用に使っていただきたい。これが親としての願いです。教会後継というレベルではなく、「いのちの助かり」というレベルで「お道の教師に」ということを願っているのです。
考えてみると、ほとんどのお広前の初代も同じだったはずです。
九州のお道開きの祖・桂松平先生もそうでした。家業の材木卸問屋が破産したり、代々カクの病(胃がん)で亡くなるというめぐりを抱えていた桂松平先生が、明田角太郎先生のお働きによって、このお道に出会い、家のめぐりと身のめぐりのお取り払いを願って、信心の道に分け入ることになったように、それぞれのお広前の初代も、深い深いめぐりを抱えて難儀していたところに、このお道のご信心に出会うことで、そのめぐりのお取り払いのおかげを頂き、いのちの難儀が救われていったのです。
そして、「この私がそうだったから、あなたも信心しなさい。信心すればおかげになります。助かります」と言って、「おかげを受けたことを話して聞かす」ことで、いのちの難儀を抱える人々を次々と取次助けて来たのが、各お広前の初代だったのです。
明治6年10月10日の御神伝は、金光教の神義論であると言いました。「なぜ、難儀をするのか」、そして「なぜ助かるのか」の筋道が示されているのが、この御神伝です。そうやって見ていくと、この筋道は、金光大神様ご自身がいのちの難儀から救われていった筋道であり、桂松平先生や静岡の初代、そして各お広前の初代がいのちの難儀から救われていって筋道そのものなのです。しかも、明田角太郎先生が語る金光大神様の教えに、初めて桂松平先生が心を揺り動かされたのが、この御神伝だったのです。
金光大神様は「私がおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりにおかげが受けられます。」とおっしゃいました。そして、桂松平先生もそのとおりのおかげを受け、今度は桂松平先生が九州での「おかげの受けはじめ」となられることで、その後に続く者がそのとおりのおかげを受けてきている。そういうことなのです。
それが今はどうなっているのでしょうか。自分の抱えているめぐりを見つめ、難儀を見つめ、そうした先祖から受け渡されてきている「いのち」を見つめての信心になっているでしょうか。御用になっているでしょうか。
こうして、難儀が生まれる四つの理由である「いのちの難儀」を聴かせてもらおうとすると、「私と同じ」という「当事者性」が生まれてきます。
ところで、「私と同じ」というのを英語では“I am with you”と表現することがあります。「同感です」というニュアンスに近いのですが、「私も同じ」と言いたいときに使います。そして“I am with you”はそのまま訳すと「あなたのそばにいる」ということになります。
①座るでお話ししたように、神様は「私もここにいるから、お前もここにいてくれ」と、金光大神様にお広前でお取次の業に専念するようにお頼みになられました。「私もここにいるから、お前といっしょにいるから」と。そうです、“I am with you”です。
取次者が参来る氏子に“I am with you”「私と同じだ」と言って関わることは、それは同時に“I am with you”「あなたのそばにいる」と言って、取次者が参来る氏子に寄り添うことになります。そして、その取次者は神様から“I am with you”と寄り添われる。「当事者性」はお取次に「寄り添う」態度をもたらすのです。
だから「成り代わる」お詫びなどの祈りが出来るようになる。そして、いのちを救おうとして寄り添ってくださる神様のみ思いが感じ取られるようになり、そのみ思いにお礼が出来るようになる。その神様のみ思いに応えたいという願いが生まれるようになる。
◇③祈り
こうして、今回のお話の前半で触れた「成り代わって」の「祈り」ということになっていき、「業」としての「祈り」になっていくのです。
この③祈りについて、もう少し付け加えると、いよいよ私たちが神様にお礼でもお詫びでもお願いでも届ける手段は祈りしかない、ということです。しかも、その届け先は人間の物差しが通用しない神様です。この物差しが通用しない相手、コミュニケーションが簡単に通じない相手を「他者」と言うのですが、神様こそ他者の中の他者、キング・オブ・他者です。神様と私たちとでは、はじめからその力の差は歴然であり、そうした不均衡な関係を非対称性と言うのですが、だからこそ金光大神様は「神様を神様と立て仰ぐ」という実意丁寧な態度を貫かれたのでした。祈りにおいても、こうした実意丁寧な態度は徹底しています。
資料を見てみてください。私は教祖様百二十年のお年柄から、教典にある大喜田喜三郎師が伝えた「金光大神祈念詞」を毎日唱えています。少しでも金光大神様の祈りを感じてみたい、というのがその始まりでした。
その祈りの中身のまさに行き届いていること。それはなぜか。金光大神様は神様が他者であることを、コミュニケーションが簡単に通じない相手であることをわきまえていたからです。いや、神様だけでなく、この祈念詞に出てくる生き霊、死霊、精霊といった非人間的なるものへの向かい方、関わり方については、一歩間違えると大変なことになることを重々承知していたからです。
このように、人間の手には負えない神様や霊の世界、その霊的世界に関わっていくことが実は信心の核心であり、その「非人間的なものの世界」と「人間の世界」の間に立つのが宗教者であるのに、今の私たちは、この「非人間的なものの世界」をどこまで認識しているのでしょうか。
大喜田喜三郎師が金光大神様のお広前に参拝したのは明治7年頃とされていますから、天地書附が定まり、世界を包み回すために道理を説いていたイメージが強い明治期の金光大神様が、こうした非人間的なものの世界のことをご祈念をしていたことも驚きでしたし、どちらかというと、この「金光大神祈念詞」の後半部分に偏りがちな自分の信心であることも分からされ、自分の信仰世界の狭さを気づかされもしました。
こうして、神様への向かい方、祈りにおいても、金光大神様は他者を他者を立て仰ぐ、つまり神様を神様と立て仰いでいたことがよく伝わってきます。どうしたら神様に届くのか。神様は他者ですから、コミュニケーションが取れないことを前提に、それでもなお、いや、それだからこそコミュニケーションを取ろうとする、届けようとする。その態度が実意丁寧な祈りを生んでいるのです。「どうか分かってください」「どうぞお受け取りください」と。
そのコミュニケーションということで、哲学者の鷲田清一氏が『パラレルな知性』という本の中で、劇作家平田オリザ氏から教えられた「ディベート」と「ダイアローグ」の違いについて紹介をしていました。「ディベート」も「ダイアローグ」も対話という意味の言葉ですが、「ディベート」には討論という意味もあります。平田オリザ氏によると、この二つの違いは、話が終わった後で自分の考えが変わるかどうかにあるそうです。「ディベート」では、自分の考えを違う考えの相手に伝え説得することが大切で、その討論を通じてもし自分の考えが変わったらそれは負けなのだそうです。ところが「ダイアローグ」では、話し終わって自分の考えに変化がなければ対話の意味がないことになるのだそうです。
先ほども触れた、金光大神様の四十二歳の大患のことを思い出してください。神がかった古川治郎さんと八百蔵さんとのやりとりは「ディベート」です。それはそうです。もし八百蔵さんが言い負かされたら、金光大神様の命は取られると思われていたから、八百蔵さんは徹底的に言い返します。主張しまくります。「ディベート」そのものです。
それに対して病の床から這い出てきた金光大神様は神様との「ダイアローグ」をしました。神様の言葉を受け入れ、その結果「自分は間違っていた」ということで、考えを改めたのでした。そうなんです。このお道は神様とのダイアローグから始まったのです。そして、金光大神様は神様とのダイアローグを重ねることで、その間柄を深めていき、さらに、私たちが神様とのダイアローグが出来るようにするために、お取次は始まったのでした。このように、このお道での神様とのコミュニケーションはダイアローグですから、自分の中に改まりや変化が起こり、そこから新しいものが生まれてくる。これが「祈り」のすごさです。
社会学者の大澤真幸氏と橋爪大三郎氏の本「ふしぎなキリスト教」の中で、橋爪氏は、キリスト教の神様は全知全能であるけれども、ノアの方舟のように何かをした後、人間の振る舞いを見て「後悔する神」という一面があると言っていました。これを読んで私は「天地金乃神様は改まる神様だ」と思いました。教典から浮かび上がる神様は、後悔するだけに留まらず、そこから一歩踏み出て神様自身が改まっていくような、そんな神様に思えてならなかったのです。やはり四十二歳の時、神様はそれまでの「問答無用」な神様ではなく、「この家は滅亡になりても、亭主は死んでも大事ないか」と問い直す神様に改まったのでした。
前に、その神様がどんな神様かが、その宗教の色合いに反映してくるとお話しましたが、天地金乃神様が改まる神様なのですから、その信心の特長も「改まり」となります。神様とのダイアローグ、祈りによって自分の中に気づきや変化が生まれ、そこから神人関係が更新され新しいものが生まれてくる。
特に、いのちの難儀を生み出す四つの理由、「おかげ知らず」「わけ知らず」「無礼いたし」「前々の巡り合わせ」が分かると、そこからは自ずとお詫びの祈りが生まれ、それが改まりに繋がっていく。自分を生まれ変わらせていく。その生まれ変わりを促す気づき「ああ、そういうことだったのか」という気づきと、そのお詫びから生まれた新しい生き方、いのちの運び方を伝え現すことが、④話す、となっていくのです。
◇④話す
私は「取次の業」の内容を紹介した時、「①座る、②聴く、③祈る、そして④話す」として①②③と④を、業だけにわざと区別しました。それは、①②③は取次者が意識して取り組むことですが、④は今聞いていただいたように、①②③、特に③の結果として生まれ出てくるもので、「おまけ」のようなものだからです。気づきが生まれてこなければ、あるいは取次者の中で「ああ、そういうことだったのか」という驚きにも似た発見がなければ、取次を願った氏子にとっても取次者にとっても、その「話す」中身は神様からのメッセージにならないからです。逆に言えば、気づきがなければ話さなくてもいいぐらいでいてもかまわないのではないでしょうか。
考えてみると、①②③はすべて時間がかかることです。①座るも②聴くも③祈るも時間をかけなければなりませんが、これは「時間を捧げる」ということでもあります。そして、「時間を捧げる」というのは具体的な行為に他なりませんから身体性を伴います。寄り添うために時間と身体を使う。これが「取次の業」です。
本教の教師は「終生道の御用に専念する」ことを神様にお願い申し上げています。「終生」とは、自分の人生のこれからの時間を神様に捧げるということです。時間と身体を神様に捧げるという神様との縦軸があって、そこから生まれ出る「神様との間柄」を話にして聞かせるのが、④話すということなのでしょう。
金光大神様が山本定次郎師に「『天地金乃神と氏子の間柄のことを、金光大神、参って来る氏子に話して聞かせよ』とお伝えくだされたので、このように話をしておるのである。」とお伝えくださいましたが、取次者が話すのは取次者自身の「神様との間柄」から生まれ出てくるものなのです。
こうしてみると、本部が刊行した冊子『取次に生きる』に掲載されているお話しは、それぞれの先師の縦軸から生まれたお話しです。その縦軸があればこそ、先師が出会った神様がこちらに伝わってくる、響いてくる。だから『取次に生きる』の話はどれもありがたく、すごい話なのです。事柄に留まらず、その話から浮かび上がる先師と神様との縦軸を頂いていくことで『取次に生きる』が生きてくるのです。
◇金光様に神習う
さて、勝手な解釈を交えながら、私が考えた「取次の業」の、その具体的な中身について話をしてきました。レジュメの「○取次の業」のはじめのところでお話ししたように、「理念化」され「抽象化」されてきた「取次の業」について、具体的にその中身をここまで考えてきたのですが、カンのいい方はもうお気づきだと思います。そうです、この「取次の業」の具体的なあり方こそ、金光様の御神勤、御本部広前でのお結界奉仕のお姿そのままなのだという結論にたどり着いてしまいました。
結局、それを私が回りくどい言い方で説明をしていただけなのですが、その「取次の業」は、金光大神様以来、歴代金光様によって伝承され、「教統」として大切に今日まで受け継ぎ現され、展開してきているということなのです。でも、これをここでしっかりと確認しておくことが大切なのです。これさえはっきりすれば、「取次の業」の中身が具体的になってくるからです。
この「取次の業」について話をする前に、「業」とは「わざ」であり、「型」であり、「見習うべきもの」でもあり、「真似てみたくなるもの」でもあって、すべて具体的な形を伴っていると説明しました。そうなんです。それが「業」である以上、その「わざ」や「型」を見習い真似ていくことが大切なのです。そして、私たちの先輩方は、その金光様のお取次の「業」を「神習う」ことに努め、「お手代わり」という言い方をして、各取次広前で身体性をともなう「業」に取り組むことで「成り代わり」に勤めて来たのでした。
ですから、私たちも「神習う」ことをしていけばいいのです。「取次の業」である①座る、②聴く、③祈る、そして④話すことに、時間と身体を使って取り組んでいけばいいのだと思います。“I am with you”「そばにいるよ、ここにいるよ」と言って寄り添う神様がいてくれるお広前に身を置き時間を過ごす。金光大神様や歴代金光様がそうされてきたように。本教のお取次の根源はここにあるのです。
○「このお道の助かり」とは
「取次」で何故助かるのか、ということから始まって、「取次の業」のについて、話を進めてきました。そこで、最後に「取次によるこのお道の助かり」ということをお話ししてまとめとします。
私は「取次によるこのお道の助かり」とは、「難儀な氏子が天地金乃神様の氏子に生まれ変わっていくこと」だと思います。
一昨年、『金光新聞』の「教祖130年 私の頂き方」という記事に次のような原稿を寄せました。
「教祖様とはどんなお方ですか?」。こう聞かれたら私は「はじめて天地金乃神様の氏子になったお方」と答えます。こう言うと「人は皆神様の氏子じゃないのか。なんではじめてなんだ」とつっこまれそうですが、その理由はこうです。
教祖様と出会う前から、神様は人間を救い助けようとあらゆる手立てを施されました。が、人間がそれに気づかないし、分からない。しかし、その神様の働きと思いにようやく心を向ける人が現れました。それが教祖様です。その教祖様のご信心によって、ついに神様は「天地金乃神」と御名を現すことになりました。こうして天地金乃神様がこの世に出ることで「天地金乃神様の氏子」がはじめて出来た。それが教祖様だったのです。
一方、神様に出会った教祖様は「私には天地金乃神様という、いのちの親がいる。この神様に頼みすがっていこう」と、神様との縦軸をより確かなものにしていこうとされました。こうしてはじめて切り結ばれた天地金乃神様との神人関係は、教祖様から見れば「天地金乃神様の氏子」となって生きていくことに他なりません。そして教祖様はご自身が天地金乃神様の氏子としての生き方を求め現されたばかりではなく、多くの人に神様と人との間柄を話して聞かせてくださいました。私たちには天地金乃神様といういのちの親がいて、その神様と関係を結んでいくのが「安心の道」に他ならないことを。
そして教祖様に出会った人たちも、天地金乃神様の氏子として生きる教祖様の生き方に魅了され、それを求め現していくことで横軸が伸びゆきお道は広がり、助かりが次々と生まれていったのでした。
こうして見ると「氏子あっての神、神あっての氏子」となるには、やはり私たちが「氏子」になることが必要なのだと思います。私たちが天地金乃神様の「氏子」であることを自覚し、その生き方を求め現すことで「あいよかけよ」は成り立っていくのです。それが教祖様が開かれた神人の道であると、このお年柄の中で思うに至りました。
こういう文章です。今日の私の話を聞いてくださった皆さんなら、この内容を良く理解していただけると思うのです。
「難儀な氏子」とは、「おかげを知らず」「わけを知らず」「無礼いたし」「前々の巡り合わせ」という四つの理由から「いのちの難儀」を背負わされている人のことだと繰り返し言ってきました。その「いのちの難儀」を自覚し、そこからの助かりを願っていくように仕向けていくのがお取次の働きです。
でも、お取次のすごいところは、「いのちの難儀」を自覚し、その助かりを願った時には、すでに神様が寄り添ってくださっていることを気づかせる働きがあることなのです。私が気づき願う前に、私のいのちの難儀を助けようと、すでに神様がお働きはじめている。私のいのちが助かるために、神様は私を教会の子弟として生まれさせたのも、すでに神様が、なのです。ここに気づけるかどうか。取次者がここから目を離さないようにしていられるか。「事柄の難儀」でも「いのちの難儀」でも、難儀がお広前に持ち込まれるのは神様がそう仕向けていてくれるからです。「難儀な氏子」を助けるために、その人を引き寄せているからです。
この「すでに神様が」に気づけるようになるために、皆さんも一度は、自分のいのちの流れをしっかりと見つめてみてください。自分のいのちの流れが、川上からどのように流れてきているのかを見てみてください。そうやって「いのちの難儀」に気づいた時、すでに神様が寄り添ってくださっていることに気づき、私のいのちの難儀を助けようと、すでに神様がお働きはじめていることに気づくはずです。
宗教学者の大峯顯氏がこう言っています。
「信心というのは『そうだったか、もう救われていたのか』と気づくことです。われわれがこれから何かをやるんじゃない。もう済んでいたのかと気づくこと。今までそれに気づかないでいただけのことで、気づいたということが、助かったことです。」(『君自身に還れ 知と信を巡る対話』大峯顯/池田晶子)
七墓の難儀の最中(さなか)、金光大神様は「残念至極と始終思い暮らし」ていました。「難儀な氏子」そのものだったのです。でも、後で気づいたことですが、その難儀の最中に、すでに神様は金光大神様に寄り添っていたのでした。金光大神様のいのちの流れを四百年以上にわたって見つめ、祈っていたのでした。「神も仏もあるものか」と思える、その難儀の中にあって、すでに神様が動き出していた。この気づき=助かりを生み出すのがお取次です。自分以上に深く広い眼差しを持って、その自分のいのちを見つめている神様がいることを気づかせるのがお取次です。
こうした気づき、「そうだったか、もう救われていたのか」という気づきが生まれたとき、「難儀な氏子」は「天地金乃神様の氏子」へと生まれ変わるのです。
そして金光大神様が天地金乃神様の氏子に生まれ変わることで「神が世に出る」ことになり、このことをもって、天地金乃神様は金光大神様を恩人と仰せになりました。だから、「神が世に出る」ことが神様の助かりなのです。そうであるのなら、私たちが天地金乃神様の氏子に生まれ変わることが、そのまま神様の助かりになっていくのです。
この「天地金乃神様の氏子」へと生まれ変わらせる働きを「取次」というのです。昭和29年教規を作り上げた審議記録の中に、こういう文章があります。「人間が神の氏子であることの自覚を与えるところに布教の働きがある。…取次の働きは、そのまま布教の働きであって、この布教の働きは結界取次において最も行き届いて行われるものである」。私たちの先輩はここまではっきりとさせていたのです。
さて、私はある時教祖奥津城でご祈念しながら、「金光大神様と私の信心の違いはどこにあるのか」を考えていました。そしてこのように気づきました。「私の信心の軸足は『おかげを頂くために信心する』ことに重心があるが、金光大神様の信心の軸足は『おかげを頂いているから信心する』ことに重心をおいている」ということでした。「おかげを頂くために信心する」ことから「おかげを頂いているから信心する」ことに重心が少しずつ移っていく。これが「天地金乃神様の氏子」へと生まれ変わっていくことなのです。
皆さんは、教師としてここにいます。皆さんのいのちを助けるために、神様が神様のおそばにおいてくださっているのです。すでに神様が動き出しているのです。もう救われているのです。
今日はまず初めに、「世界に出るために『世界』を出る」ということからお話しをしました。「世界」を出るというのは、改まりであり、生まれ変わりです。お取次に関わりながら、神様の寄り添いを感じながら、取次者自身が神様との縦軸を磨き上げ、信心の重心を移動させて、自分の「世界」を超え出ていきましょう。もっともっと、今まで以上に「天地金乃神様の氏子」に生まれ変わって、「神が世に出る」おかげを頂いてまいりましょう。
これでお話しを終わります。ありがとうございました。岩﨑道與「「取次の業」について」