「祈りの天地」―金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加して_楠木信浩

摩文仁の丘

今月初めに発行の当センター英文ニュースレター「Face to Faith No.86」に掲載された、金光教沖縄遺骨収集奉仕についての記事の日本語原稿を以下に紹介します。

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「祈りの天地」―金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加して
金光教国際センター次長・楠木信浩

沖縄は、東京から南西へ約1600キロ、飛行機で2時間30分に位置する、363の島からなる日本の県である。今から71年前、1945年、太平洋戦争末期、国内唯一の地上戦が行われた土地であり、わずか三ヶ月の間におよそ25万6千人の死者を出した。約半数は民間人の犠牲者であり、県民の4人に1人の命が失われたといわれている。米軍による地形が変わるほどの艦砲射撃と空爆は、鉄の暴風が巻き起こったと表現されるほど激しいものだった。従軍したアメリカ人記者は、「この世にあるだけの地獄を一カ所にまとめたような戦い」と記している。

2月20日、21日に金光教那覇教会が中心となって第43回金光教沖縄遺骨収集奉仕が実施され、総員161名(内34名は未信奉者)が、沖縄本島の南端部に位置する糸満市摩文仁の平和祈念公園に参集した。収集活動が行われた摩文仁の丘は、沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地である。現在、その周辺は、沖縄戦跡国定公園に指定されていて、多くの慰霊施設や慰霊碑・慰霊塔が建立されている。

ご祈念

本活動は、金光教那覇教会長の林雅信師を中心に1974年に始まり、1977年からは全国からの信奉者を集めて、基本的に年に1度・2日間の日程で今日まで続けられてきた。これまで延べ14000人を超える参加者によって、1200柱のご遺骨が収集されたという報告があった。活動は、有志の事前調査を元に、班毎に分担されたエリアでご遺骨の捜索と収集に当たる。収集されたご遺骨は、「お清め班」によって泥や土をきれいに取り除かれて、テント内のご神前に安置される。そして、最終日に慰霊祭が仕えられた後、ご遺骨は遺骨情報収集センターに届けられる。

一列になって

開会式の後、参加者は摩文仁の丘のジャングルに足を踏み入れて、それぞれの収集場所を目指す。捜索地一帯は、琉球石灰岩という独特な地質でできていて、その表面は粗くとがっているため、手袋やヘルメットなどの装備が欠かせない。道なき道を歩きながら、開会式で林師が語った「この地に眠っておられるみたま様の安心を祈りながら、みたま様から声を掛けてもらえるような気持ちで歩いてもらいたい」という言葉が頭を過ぎり、「今、この私の足下にみたま様がおられる」という思いが自然と込み上げてくる。

洞窟中

戦後71年という年月の経過と、本教をはじめ幾多の団体の奉仕により、目視でご遺骨を発見できる可能性は低い。参加者は、黙々とみたま様の声に耳を傾け、戦禍を逃げまどう人たちを想像しながら、捜索場所に目星を付けて、熊手を使って土を掘り返し、重たい岩をもどかしながら、骨の一かけらも見逃さぬよう目をこらし、捜索に全神経を集中させていく。人一人が身を隠せる岩場の隙間を見つければ、ここに逃げ込んだ人がいたかもしれないと、その近辺を捜索せずにはいられなくなる。真っ暗な自然壕の中を、ライトを灯して捜索する参加者もいる。大人数が隠れられる場所は、既に捜索されていることが多いが、身を置くだけでそこで命を落とした人たちが少なくないことを感じ取ってしまう。海に近い岩場を歩いていると、崖の上から大量のゴミが不法投棄されている場所に遭遇することもあり、ご遺骨の上にゴミがどんどんと積み上げられている現実を知る。このように捜索作業は様々な意味で過酷を極めた。

捜索1

二日目の作業が終わる間際、同じ班の女性が、男性の足と思われるご遺骨を発見した。十数名の班員がその場に集まり、皆でその近辺の土や岩を掘り返し、ご遺骨の収集に当たった。しかし、完全な一体を掘り出すことができぬまま、時間となり捜索は打ち切られた。実際に褐色のご遺骨が次々と現前していく様は、71年前の戦争が時を超えて現実に迫りくる瞬間に感じられた。その後、国立沖縄戦没者墓苑の前で祭主・林雅信師による慰霊祭が仕えられた。

沖縄遺骨収集奉仕は、戦争のリアリティーを知らない私のような者に、沖縄の悲劇に少しでも触れられる貴重な場となる。当然、現場を訪れたからといって、当時の「悲劇」が分かるわけではない。私はただ黙ってその場に跪き、言葉にならない「何か」が自身の身体を通り過ぎていくのを見届けることしかできない。私は沖縄に赴いたことで、ネット検索に引っかかる表象可能な記号としての情報ではなく、自分の身体を媒介にすることでしかアクセスできない非言語的な「情報」を手に入れることができた。

私は、ジャングルに入った時から出るまでの間、ずっとみたま様の存在を感じずにはおられなかった。それは、未だみたま様に起きている「悲劇」が、私を沈黙させ、「祈り」を誘発させたということに他ならない。みたま様の染みこんだ土に触れ、熊手を振り下ろし、岩を動かす、そういったご遺骨を探す行為の一つ一つが、みたま様を弔う儀礼と化していった。結局、私はご遺骨を発見することができなかったが、終始、みたま様という不可視な存在に強烈なリアリティーを感じていた。私の前にこの非日常的で不思議な空間が、なぜ顕現したのだろうか。

海

それは、遺骨収集奉仕が、穏やかな海を眺望できる美しい摩文仁の丘を、みたま様が顕現する「異界」へと変容させたからではないか。私が「異界」を彷徨っていたとすれば、みたま様と出会っていてもおかしくはない。私がイメージする「異界」とは、科学では解明されていないだけで、確実に実存すると感じられている世界のことである。信心していると、時々「異界」への扉を開いてくれる人たちに出会うことがある。今回、私を「異界」へと誘ってくれたのが、那覇教会長の林雅信師であった。

同師は、1972年、戦後27年が過ぎて尚も山野にゴロゴロと転がっているご遺骨を目の当たりにして、天地をご神体に持つ神様と野ざらしのまま放置されたみたま様に対して「相済まない」と涙を流す。今日までの金光教沖縄遺骨収集奉仕の原点がそこにある。

蔦

先にも述べたが、現在、摩文仁の丘の地表にご遺骨は転がっておらず、一見するとただのジャングルである。普通に考えると、私が足を踏み入れただけで、「何か」を感じられるとは思えない。しかし、実際にその場に立つと、「相済まない」という気持ちがわき上がり、声なき声に耳を傾けてしまう。おそらく、この私の身に起きた現象は、私だけではなく参加者一人一人のところでも同じように起こっていたのではないだろうか。まるで私たちが、「林先生」に感染してしまったかのように、「相済まない」という気持ちが「祈り」を生成し続けるのだ。

林先生

同師は、自身の沖縄布教50年を振り返り、「私がどうして沖縄に差し向けられたか、を求め続けた今日までの御用」、また「みたま様の助かりがなければ、この沖縄は助からない」と語っている。遺骨収集活動から見えてくるのは、沖縄・摩文仁の丘を、過去に「悲劇」が起きた場から、「祈り」の場である聖地へ変容させるために、神様が同師を沖縄に差し向けたのではないかということである。同師にとって、沖縄は「悲劇」が起きた場以前に、天地の神様のお体としての「天地」であった。だからこそ、その「天地」に残された、沖縄の「悲劇」の傷跡を目の当たりに、涙が流れたのではないか。つまり、同師にとって、沖縄の「悲劇」とは、神様の悲しみであり、同師の流した涙は、神様の流した涙であったのではないだろうか。私が「異界」に感じた摩文仁の丘は、同師にとっては「天地」であり、そこでの遺骨収集奉仕とは、沖縄の「悲劇」によって難儀しているみたま様を含めた氏子を取次ぎ助ける営みだったのである。

同師の「一人一人にご神慮が掛けられている」という語りを聞いて、同師と遺骨収集の関係を振り返ってみると、私が今いるこの場所が「天地」であり、その「天地」の発するサインに気付くことが、ご遺骨を見付けようとする姿勢と重なる。当然、一人一人に掛けられたご神慮をネットで検索することはできない。私の身体を媒介に「天地」にアクセスするしかないのだろう。そのとき「相済まない」という態度が「鍵」になるのかもしれない。

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