「死者とのコミュニケーション」by岩﨑道與師

平成26年度教会布教研究会(金光教名古屋センター主催)に提出された、岩﨑道與師(金光教静岡教会長・国際センター前所長・現嘱託)による研究レポート「死者とのコミュニケーション」を紹介いたします。

「死者とのコミュニケーション」
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 「死者とのコミュニケーション」
                          岩﨑 道與
  

○死者という他者とのコミュニケーション

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思想学者・内田樹氏は「死と身体 コミュニケーションの磁場」という本の中で、「動物と人間の違いとは何か」という問いかけをした。この問いに対する一般的な答えとしては「言葉を話す」「道具を使う」などが思い浮かぶが、内田氏には別の答えがあった。それは「死者を弔う」という答えだった。そして、内田氏は続けて「それではなぜ人は死者を弔うのか」について、こう書いている。

人間が人間になったことの決定的な指標は埋葬を始めたことにある。
埋葬の発生は、では何を意味するのか。それは、世界を「生」と「死」の二つのカテゴリーに分けたときに、その中間に「どちらにも属さないカテゴリー」をつくったということではないかと思います。「生体」と「死体」のあいだに「死者」という、どちらにも属さない第三のカテゴリーをつくった。
「死者がいる」。人間はいないはずの死者を「いる」という動詞で受ける。「いるけどいない」「いないけどいる」というこの両義性。

人間の生きている世界と、「人間がけっして触れることのできない世界」の中間に、つまり人間の世界には属していないけれどもなんとなく人間の世界の近くにいて、「人間が踏み込むことのできるような、できないようなあいまいな領域」に死者はいる。そういう「中間状態そのもの」を主題化し、意識化させるための装置として、葬礼というものは存在するのではないか。

人は死ぬといなくなる。でも、いないけれどいるということが分かるのが人間である。いないけどいる。いるけどいない。この間(はざま)を感じ、そこに立ち尽くすのが人間である。だから死者を弔うのだと。

死者とは生者にとって、斯様に捉まえどころのない存在である(いないけどいるから「存在」なのである)。その捉まえどころのなさ故に、死者への関心には恐怖がつきまとい、自ずと死者への関わり方は「鎮まってもらう」方向へ傾くことになりやすい。

こうした捉まえどころのない死者を「他者」として向き合うことを説いているのが宗教学者・末木文美士氏である。末木氏は次のように書いている。

私たちが合理的に考え、相互に了解しあえる領域を、人間同士の関係という観点から、「倫理」の領域と呼んでおきます。その外に、私たちが合理的に理解したり、相互に了解することが不可能な領域があります。相互に了解できないけれども、関わりをもたざるを得ない相手を「他者」と呼んでおきます。(「近代仏教を問う」)

もっとも極限的な他者とは何者か。死者こそ、他者の中の他者ではないのか。死者とはもはやコミュニケーションが完全に断絶している。(「他者/死者/私」)

死者の語りかけは生者とは異なる。しかし、死者も紛れもなく語りかける。コミュニケーションの絶対的な不可能性の中で、死者は語る。それは矛盾ではないか。そう、矛盾している。ありえないことが起こっている。確かにそこでは〈人間〉のルールは通用しなくなっている。ルールが消え、言葉が通用しなくなったところで、死者は語りだす。妄想や思い込みと紙一重のところで、あるいはむしろ、妄想や思い込みとしか呼びようのない事態の中で、死者は語る。死者の声を聞き、その声に応えるという営為は、〈人間〉の世界から見たならば、端的には狂気でしかない。だが、なぜ狂気であってはいけないのか。
死者論は確かに近年盛んになりつつある。例えば、戦争をめぐる慰霊・鎮魂論を考えてみよう。死者を政治の手段として利用することは、もちろん論外である。しかし、〈人間〉の言葉の範囲では、死者は黙して語れない。死者をどれほど蹂躙し、勝手に利用しようと、死者にはそれに抗議する言葉がない。死者を殺すのは、生者を殺すのよりもよほど簡単だ。殺したという自覚さえなくても殺せるし、死者を殺しても誰も咎めはしない。
だが、死者を利用しようとは思わなくても、慰霊とか鎮魂というとき、結局それは生者の側の一方的な営為に過ぎないのではないか。葬儀は儀礼として整備されることにより、死者を生者の世界から追放する。〈人間〉の世界で、死者は生者の追憶の中にしか居場所を見出せない。あるいは、せいぜい墓所でひっそりと息を潜めて生者たちを見守るのが、死者に与えられた役割だ。慰霊・鎮魂も、それとどれだけ違うのか。生者が死者の魂を鎮め、それによって死者の跳梁を封じ込めることではないのか。(「他者/死者/私」)

このようにして、末木氏は死者という他者とのコミュニケーションの大切さを説く。その主張は、私たちの死者との関わり方が本当にコミュニケーションになっているのか、かえって関係を断絶しかねないコミュニケーションになっているのではないか、という問いを投げかける。
そして、死者との関係を切り結ぶための葬送儀礼の、その今日的変化の中にもコミュニケーションの断絶が見て取れる。いや、その断絶を意識していないばかりか、当人達(生者)はコミュニケーションが成立していると思い込んでいるから、なお質が悪いのかも知れない。
こうした死者とのコミュニケーション能力(死者への態度と、その関わり方の両方を含めての「能力」)の欠如が、一般の人々だけの問題ではなく、宗教者の問題でもあると警鐘を鳴らしているのは、宗教学者・正木晃氏である。正木氏は真言宗智山派伝法院が開催したシンポジウムで次のように語った(春秋社刊「近代仏教を問う」より)。

この種の幽霊であるとか、亡くなられた方の御霊というか、とにかく霊魂にまつわる話になると、やはり鎮魂・回向・供養という行為が必要になってきます。この件に関して、非常に大きな問題になっているのは、回向や供養はなんとかできても、鎮魂はそう簡単にはいかないという事実です。
では、回向や供養と鎮魂では、どこがどう違うのか。この問題については、第一生命の研究員をしている小谷みどりさんがじつにうまく定義していますので、使わせていただきます。彼女いわく、「鎮魂はマイナスの底に沈んでいるものを、とりあえずプラスマイナス・ゼロまでもちあげてくる行為であり、回向や供養はプラスマイナス・ゼロのものをプラスにして成仏させる行為」です。当然ですが、プラスマイナス・ゼロのものをプラスにするよりは、マイナスの底に沈んだものをもちあげるほうが、よほど力がいります。曹洞宗の道元禅師の言葉を借りれば、「仏力(ぶつりき)」とか「定力(じょうりき)」がそうとうになければ、鎮魂はできません。

鎮魂ができるだけの力量をもった僧侶というのは、残念ながら、現在の仏教界にはそう多くはない。というよりも、ごく稀である。なぜなら、修行を軽視し、頭の中だけで考えた、つまり思想化した、哲学化した仏教が中心になってきた以上、身体を必須とする修行によってしか得られない仏力・定力をもっている僧侶は、そうめったにいませんよ、という話です。
この点に関連して、「儀礼」もまたきわめて重要だろうと思います。宗教儀礼の研究は、仏教学よりはむしろ宗教学や人類学の分野で研究されてきたのだろうと思います。私も若いころは、儀礼というのは何とばかばかしいことか、と感じていました。金がかかって、しちめんどくさくて、厄介だと感じていました。
しかし、いろいろな体験を重ねていくうちに、儀礼がもつ非常に大きな力や意義に気付かざるを得なくなりました。典型的な例が葬儀です。あるいは四十九日とか一周忌とかという法事のたぐいです。

鎮魂となれば、「呪術」の問題が無視できません。近代仏教学では、一般的に、くだらないものというか、要するに夾雑物であるかのごとく扱われてきましたが、そう簡単ではない。こと密教に関しては、決して下等な行為ではないのです。身体から精神へという回路を開くための重要な行為の一つなのです。この部分をもう一度きちんと考え直していかなければならないだろうと思います。

鎮魂・回向・供養というような宗教的行為は、僧侶でなければできません。それも先ほど申し上げたように、仏力とか定力をもった僧侶でなければできないことが多々あります。

人間を人間が救っていく、あるいは癒やしていくというとき、そうそうきちっとした理論や何か、体系だけで可能なわけではないのです。むしろ人間の五感に直接訴えてくるような「力」は絶対に必要です。

同じシンポジウムで伝法院の廣澤隆之氏は、自身が宗教者でもあることから、以下のような経験に基づいた発言をしていた。

近代化すればするほど、宗教は世俗化する。

祈りとは「私には定力がない、しかし、それでも仏さまのほうから力をもらえる」という確信だと思います。

私は日本の宗教的基層は、基本的に「死者供養」だと思っています。死者供養というのは、簡単にいえば「鎮魂儀礼」です。それからもう一つは「現世利益」、祈祷の儀礼ですね。

それで「死者供養」と「現世利益」の両方を可能にする根拠というのは何かと考えてみますと、死者と生者が共存する文化かなと。

何らかの形でいつも死者は身近なところにいるというものが、日本人独特の観念だろうと思います。

「田舎の人は、この土地は先祖からもらった土地だからということで、汲々とそこにしがみつくものだ、その問題がわからないと先祖崇拝というのはわからないんじゃないのか」と話したことがございます。

これらの警句は、私の死者とのコミュニケーション能力はどうなっているのか、を問うてきた。葬送儀礼や霊を祀ることに関わる者として、死者や霊とのコミュニケーションは取れているのか。お前にその力はあるのか。なければ、どうしているのか…。

○死者と取次

さて、金光大神の信心の中心は取次である。神と人との関係を切り結ぶのが取次であり、まさに神人のコミュニケーションを繋ぐ働きが取次である。その意味において、死者という「人」を神に取次ぐのが、このお道の信心における死者とのコミュニケーションの中心となる。つまり、死者という他者を神という「大文字の他者」(ラカン)に取次ぐのであり、このことはいよいよ死者が助かっていく道筋をつけていくことにもなる。死者の助かり、立ち行きのために、その死者を神様に取次ぐのである。その意味では、生者も死者も変わりはない。「生きても死んでもお世話にならなければならない神様」に繋がっていけるようにしていき、「おかげの中」にいられるようにするのである。 しかし、ここで最初の躓きが待っている。生者の語りと死者の語りは決定的に違う(末木氏)のだから、取次者と死者とのコミュニケーションの取り方も、生者とのそれとは決定的に違ってきて然りである。それならどうするのか。
ここで間違いやすいのが、いわゆる「霊信仰」と言われる方向に流れてしまうことである。霊のこととなると、多かれ少なかれ、この傾向が出てきやすくなる。でも、そう言われている(ご本人はそう思っていなくても)先師の信心を見ていくと、決して霊を信仰しているわけではないことがはっきりしてくる。どの先師も取次者として霊(死者)を神様に取次いでいっているのである。それなのに、こちらはどうも色眼鏡で見てしまい勝ちになる。先師への色眼鏡は、自分自身の霊への向かい方にも跳ね返ってくる。
だからこそ、死者も生者も「人」として受け止めていくという基本姿勢を大事にしたい。その時、教主金光様の「縦軸と横軸」のお言葉が生きてくる。「神と人とは縦軸で、人と人とは横軸で繋がっています」というお言葉である。生者であれ死者であれ、取次者はその「人」との横軸の関係を縦軸の中に打ち返していき、縦軸で捉え、それをもって横軸としての人との関係を結び直していくのである。
多くの死者が出た東日本大震災は、多くの課題を突きつけた。その中のひとつに死者との向き合い方があった。先述の正木氏は、宗教者が被災地に行って他のボランティアと同じことしかできなかった状況、つまり宗教者としての役割、特に慰霊と鎮魂について何ら役割を果たせなかった状況を批判している。それが先の発言に繋がっているのである。
そんな中での私の拙い経験がある。それは震災から丁度一年目の平成24年3月11日の朝のことであった。その日の毎日新聞の朝刊の別刷りに、震災で亡くなった方々の名簿が市町村別に掲載されていた。1万5千柱以上の方々(その時点で行方不明とされていた3000人以上の方々は含まれていない)の名前と享年が7ページにわたって記されていた。朝その別刷りを開いた瞬間、圧倒された。言葉にならない言葉、メッセージが私に向かってどっと押し寄せて来たのを感じた。そしてこう思った。「今日は一日、この方々の立ち行きをご祈念しよう」と。そして、その別刷りを御神前に持ち込み、名前を呼び上げながらご祈念をした。結界取次の御用や、震災発生時刻に参り合わせた信者さんとのご祈念の時間を除いて、御神前で新聞の別刷りを広げながら名前を呼び上げて立ち行きを神様に祈った。ただただ名前を呼び上げるだけの祈りであったが、夜の11時過ぎまでかかった。それでも、その日のうちに、せめて、それぞれのお名前だけでも申し上げることで、その一柱一柱のことを神様に繋げることができたと思った。自分の勝手な思い、自己満足だったかも知れないが、ご祈念が出来たお礼を神様に申し上げた。
その時気づいた。「私は自分で考えて今日一日中ご祈念をしていたと思っていたが、そうではない。霊様にさせられていたのだ。霊様によって私は神様に向かわされていたのだ。そうであるのならば、私が霊様を神様に繋げたのではなく、逆に、霊様が私を今日一日神様に繋げてくださった、取次いでくださったのだ」と。
ご祈念を通じて霊様を取次いだと思っていた私だったが、神様に取次がれていたのは、この私だったのであり、取次いだのは霊様だった。1万5000柱の霊様方の働きを実感した。「それならば、そのお働きにお礼を申し上げなければ」ということで、翌日から数日かけて(今回は1日ではとても無理だったので)、今度はご霊前で、その別刷りを広げながら、被災された一柱一柱のお霊様にお礼を申し上げた。
死者からの言葉にならない何かを感じたが、それが何であるのか分からないまま、御神前に向かった。その縦軸の中から、神様が霊様の働きを私に取次いでくれた。霊様からの働きかけというコミュニケーションが起こり、それに対してお礼のご祈念を返すことでコミュニケーションが続いた(と、これもまた自己満足なのかも知れない、という自問が続くのだが…)。そんな出来事だった。これがもし、慰霊ということで、霊様との横軸の中で別刷りをはじめからご霊前で広げていたら、こういうことにはなっていなかったと思う。
このコミュニケーションを成り立たせたのはご祈念(祈り)であった。コミュニケーションが簡単に成り立たないのが他者である。その他者としての死者に関わるのには、そのための方法が要る。それが儀礼であり呪術である。死者という他者とのコミュニケーションを立ち上げる儀礼と呪術は、まずは縦軸に繋げるそれであり、その取次の働きをもってしかコミュニケーションは成り立たない。その儀礼と祈りはどうあればいいのか。
ところで、冒頭の内田樹氏は著書「日本霊性論」の中で、キリスト教やユダヤ教の神という他者から「声がかかる(calling)」事態への対処の仕方として、おおよそ次のように述べている。
神が自分に向かって呼びかけて(働きかけて)くる。でも、その呼びかけは扉越しからのもので、しかもその扉にはドアノブがついていない。つまり自分で開くことはできず、向こう側からしか開かない。そこでこちらは呼びかけに応える形で扉をノックする。すると、扉の向こう側から「合い言葉は」と聞いてくる。その時、扉を開くためのマジックワードがある。それは何か?「知りません。教えてください」。この言葉が未知の世界に続く扉を開く魔法の言葉なのだ。押しても引いても開かない扉を開くマジックワードとは、自分の無力と無知をきちんと言語化して、それを礼儀正しく差し出すことなのだ、と。
42歳の大患で神と出会った金光大神も、このマジックワードを使った。「凡夫で相分からず」と「これで済んだと思いません」の無知無力を現す言葉に、神が扉を開いたのであった。神であれ死者であれ、他者へのコミュニケーションの扉を開く、まさに「鍵」はここにある。他者が持つ分からなさ故に、その分からなさを引き受けていく無力・無知の謙虚な構えこそ、取次に関わる大切な態度であろう。
今回の当研究会のテーマは「死生観の再考~葬送儀礼の関わりを通して~」である。死者とのコミュニケーション・ツールとしての儀礼、死者を取次ぐ儀礼と祈りをさらにここから考えていきたい。

「死者とのコミュニケーション」by岩﨑道與師” への2件のコメント

  1. 岩崎先生の論文、拝見させて頂きました。
    ブラジル育ちの私にとりましては少し難しく、まだまだ充分な理解が必要に思いますので、繰り返し読ませて頂きます。

    とりわけ、最後に出てきます、「無力、無知、謙虚なご態度が御霊様や神様とのコミニュケーションの鍵である」との見解には納得行きます。
    取次者に取りまして大切な事を教えて頂き、有り難うございました。
    今月は霊祭月を迎えさせて頂き、タイムリーな論文を目にさせて頂き、御霊様とのコミニュケーションに取り組ませて頂きたいと思います。

    • 末永静行先生

      ありがとうございます。お役に立てて幸いです。
      これからも、アップロードしていきますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

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