東京都教会連合会年頭集会における河井所長挨拶

2016年1月30日(土)に銀座教会を会場に行われた東京都教会連合会年頭集会で、河井所長が挨拶をいたしました。以下に紹介いたします。

 

明けましておめでとうございます。

私にとって今日は都連の一教師としての出席が第一義でございますが、今年元日より、はからずも岩﨑道與先生の後を受けまして、至らぬながらも国際センター所長を拝命いたしましたので、高いところからまことに恐縮ではございますが、賜りましたお役でございます国際センター所長として、しばしお時間を頂戴してご挨拶申し上げたいと存じます。

国際センターは、岩﨑前所長のご指導の下に、昨年より「インターフェイス」「インテリジェンス」を御用の柱として、新たな展開の歩みを進めております。その御用の中で考えさせられましたことをお話しさせて頂きますことをお許し願います。

教祖金光大神様は、しばしば「道を世界中に広めなければならない」、「此の方は、世界をこの道で包み回すようなおかげがいただきたい」と仰っておられたということでございます。この教祖様の願いをわが願いとさせて頂きたいと願うところに、このお道に生きる私たちの御用の柱があるように思います。
では、道を伝えるというのはどういうことなのでしょうか。ここで気をつけなくてはならないのは、教祖様は何か固有の名称をもった団体、組織を伝えようとしたのではなく、天地金乃神様という神様があること、神様と人間の間柄の真実、神も助かり氏子も立ち行くという助かりの世界、「神人の道」を歩むための真の信心という、実践の道を伝えようとなさったのだということです。教祖様の時代には、金光教というものが存在しなかったことを思い出さなくてはなりません。教祖様が伝えたいと仰ったのは、まさに神あることを知る道であり、神人の道であり、それを生きる真の信心の道であります。それを取次に従う者が、生神金光大神様のお取次のみ働きによって、まさに顔の見える一対一の二者関係の中で、実意をこめ、祈りをこめて丁寧に伝え、一人ひとりの中に真の信心の火をともし育んていくことが、教祖様の願い、神様の願いだったのです。

さて、現代の世界は、世俗化、個人化が、資本主義的な経済システムと共にグローバル化しております。いろいろな絆を断ち切られた個人が、様々な難儀や苦しみにさらされるという、まさにいのちの危機の時代を迎えています。しかも、現代において、それらの危機は、社会問題であるとか、脳や心など自然科学的な範疇で解決すべき問題と捉えるべきであるとする「世俗主義」の制約が、さらに一層その危機を深刻なものにしています。

これらの危機は、現代世界においてどのように克服されようとしているのでしょうか。

この状況を、世俗主義的な立場から合理化・近代化の不徹底であるとみなす人たちももちろんいます。しかし、グローバルな世俗主義の影響のもとにあっても、そうした世俗主義的な解決に希望を見いだすことのできない人が多くいることを、現代の危機の深刻さはいよいよ明らかにしているようにも思えます。

事実、現代のこの危機を、原理主義的な宗教思想や排他的なナショナリズムによって一気に乗り越えようとする人たちが世界を騒がせています。世俗的な社会をまるごと否定して、超越的な正義の支配する世界へと、暴力や強権的な力を用いてでも全体的に変革しようとする動きです。実は、「美しい日本を取り戻す」という昨今の日本のナショナリズムもその例外ではありません。
また、他方には、自己の身体や心の中に、霊的、スピリチュアルな次元や自分一人だけの神を見いだして、自らの魂や身体を浄化し、向上させ、聖なる全体とつながることに希望を見いだす人々がいます。そこでは、現代の危機もまた、人類の霊的な進化に向けたプロセスの一つとして捉えられることがあります。
こうした公共宗教やスピリチュアリティの活性化という現象は、現在、政治学をはじめとするあらゆる分野における最重要課題の一つとなっています。現代は、多くの人々から「ポスト世俗化の時代」もしくは「ポスト世俗主義の時代」と言われるようにもなっています。たとえば、現代の最も優れた哲学者の一人であるカナダのチャールズ・テーラーは、世俗という概念やシステムについての緻密な分析をおこなうと共に、自らのカトリックの立場を理論的に強く打ち出し、波紋を呼び起こしました。
この現代の状況において、リベラルで穏健な人々の間では、穏やかで、調和と平安に満ちた社会を取り戻すことを願って、世俗主義でもなく、原理主義や個に閉じたスピリチュアリティでもなく、社会的、公共的な空間における宗教性や宗教的次元を、理性的に回復すること、あるいは宗教の社会貢献的な働きに期待をかける声が次第に強くなってきてもおります。そして、世俗の知識人からのこうした宗教の公共性への期待は、世俗化の中で、道に迷い、自信を失いかけていた一部の宗教者にとって、問いかけと励ましの声として響くようになっております。
しかし、にもかかわらず、実のところ、そうしたリベラルな知識人による良識ある声すらも、その基本的な立脚点や判断の物差しを、世俗社会の側におかざるをえないという構造的な制約があります。そこでなされている宗教への期待も、あくまでも世俗と区別される宗教としての枠組みの中での、世俗主義の欠陥を補完することへの期待であるということを、厳しく見て取らなければなりません。そして、ここで思い出さなければならないのは、教祖金光大神様の伝えようとなさった道は、以上のような枠組みを超え、聖なるものと俗なるものの境界を貫いて、今を「神代」としていく道であったということです。

今の世は人代であり、天地の道がつぶれているというのは、教祖様がお受け止めになった天地の親神様のお嘆きの言葉です。ですが、神様はその「人代」を、昼夜も遠きも近きも問わない祈りと、生神金光大神を差し向けて、その御取次のみ働きによって、顔の見える一人ひとりに真の信心の火をともすことによって改めていこうとなさいました。このことは現代において、ますますその意義を明らかにしつつあります。たとえば、暴力や差別の問題と格闘している人類学者は、いわゆる社会的、構造的な暴力の問題は、公共空間や社会というレベルではなく、顔の見える二者関係を土台にしなければ克服できないことを理論的に明らかにしています。超越的な真理をかざして世俗的な社会に対峙することでもなく、また、世俗的な社会貢献や社会奉仕に甘んじることでもなく、御取次という一対一の関係の中で、祈りと対話をもって、一人ひとりの心と体、日々の生活と人生、世代を越えた命の流れの全体が、天地の親神様との縦軸に貫かれた、創造的な末々繁盛の道となっていくことと取り組むことがきわめて重要なのです。

この銀座教会ともご縁の深い、荒木美智雄先生とも交流のあった、アシス・ナンディという現代インドの社会学者は、差別と暴力の噴出する近現代インドの問題を鋭く問いながら、教義をもって社会と深く関わる「イデオロギーとしての宗教」ではなく、一人ひとりの中で日々生きられる「信仰としての宗教」に希望を見出すと言っておりますが、まさに一人ひとりのいのちと生活の問題を通して、真の信心をもって神人の道を求め歩むこと、その道を御取次という一対一の顔の見える関係性の中で、篤い祈りと実意をもって伝え、創造的に育んでいくことこそが、実はグローバルな現代世界の危機を癒やし、助ける最良の道であるということを、私たちは再発見し、自覚する必要があります。

さて、以上の内容は、この東京の地で御用をさせて頂いております私自身への、きわめて厳しい問いかけともなっております。中野のお広前で、お道の教師として、神人の道を求め歩む信奉者として、日々の生活の中で、御用の中で、どう実践的に答えていくことができるか。答えさせて頂けるご信心、御用になっていくかどうか。まことに至らないながらも、連合会の諸先生、諸先輩の皆様と共に、先を楽しみにしながら、おかげを蒙ってまいりたいと思います。

以上、大変長くなり、また難解なお話で恐縮ではございますが、本日の挨拶とさせて頂きます。ご静聴まことに有り難うございました。

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